昨年より鹿児島県にあった特攻基地やそのゆかりの場所を訪ね続けています。

理由は大叔父が海軍特攻隊として菊水一号作戦天山部隊として串良基地から飛び立ったということを再考し、自分なりに、特攻という作戦に散って言った人々を知り、哀悼の意を捧げ、少しでもこういった事実を伝えていかなければならない!と考えたからです。

そういった考えから県内を訪ねて回っていますが、今回ご紹介するのは水上機による特攻が行われた基地

指宿海軍基地跡

をご紹介いたします<m(__)m>

この記事を要約すると
・指宿には海軍航空基地があり水上機による特攻隊が飛び立った
・基地のあった指宿周辺も激しい空襲にさらされた
・負けた方が悪いのではなく戦争が悪いということを教えてもらった

指宿海軍基地跡へのアクセス

知林ヶ島と目の鼻の先にあり、休暇村指宿を目指せば、ほぼほぼすぐわかると思います。

地図

指宿海軍基地跡訪問レポート

指宿海軍基地跡の入口

指宿エコキャンプ場や知林ヶ島を訪ねる機会があった方はここの前を通られているはず。。休暇村指宿の目と鼻の先です。

指宿海軍航空基地は水上機の基地として昭和19年1月1日に開隊し第453海軍航空隊(旧宿毛空を改編)の基地となり同年12月15日、第951海軍航空隊に統合され同隊指宿派遣隊となった。配備されていた零式水偵(三座)、九四式水偵(三座)、零式観測機(二座)にて索敵訓練及び対潜哨戒、船団護衛等の任務に従事していた。尚佐伯空の派遣隊が二式練艇にて大型機操縦の訓練と九州南方海域の対潜哨戒を実施していた。沖縄戦が始まると南西諸島方面索敵の要衝の基地となり水偵増援のための佐世保空、串本空、大湊空、偵察302飛行隊(瑞雲)等の派遣隊が飛来した。此の頃より未帰還機が出る様になった。昭和20年4月1日沖縄本島に米軍が上陸、4月下旬に至り制海権、制空権共に米軍の手に落ち、沖縄戦に於いてはやがて特攻機の不足から水上偵察機も特別攻撃隊として使用された。参加した水偵機は、零式水偵と九四式水偵(北浦空魁隊、詫間空琴平水心隊)、零式観測機(天草空第12航戦、福山空琴平水偵隊)の三機種であった。尚当基地は3月18日、米艦載機の攻撃に始まり5月5日のB-29に依る爆撃で壊滅的被害を受けた。

基地案内板より

かつて防空壕のあった場所に慰霊碑を建立し基地跡として今に残っているのですが、実際はこの周辺一帯が基地でした。現在の写真と比較するとこんな感じですね。

広々とした指宿エコキャンプ場は基地跡だったんですよね。今は静かで平穏な時間が流れます

すべりと呼ばれる水上機の滑走台があった場所。波の音が心地よくぼんやり座っていられますね。。

さて、場所を戻し慰霊碑の場所へ向かいます。かつての防空壕の上に慰霊碑があります。

防空壕後にある慰霊碑

着きました。まずは最敬礼です。

左手には松永海軍少尉の遺書などが紹介されています。

松永篤雄 海軍少尉 遺書

私は今従容として皇国の礎となり、春爛漫の桜花と笑って散って征きます。

神州大和島根に生を享けて十九年、母上様伯母上様にご面倒をかけてばかりで何の孝養もお努めも出来ずに征くのが何より心残りですが、今悠久の大義に生きる血戦、特別攻撃隊の一人として沖縄の海に皇国の御楯と死んで征くならば「武人の本望だ」と言って孝行の端に入れて下さると信じ、自分の心を慰めて居ります。

気まま坊主の篤雄も猛訓練の結果、やっとお役に立つ事が出来たのです。
日本男子として生まれ、最も働き甲斐のある搭乗員として國を襲う嵐の中の沖縄決戦場に死んでいく栄誉、何の思い残す事がありませう。

澎湃と寄せ来る太平洋の荒波に醜敵の艦船幾百隻、必中必殺の巨弾を抱ける我が愛機は必ずや敵艦を轟沈、沖縄の海に万朶の桜と開かせます。

さようなら

お母様伯母様、孝子ちゃん、健やかに育ち、心と共に私の後継者たることを誓って下さい。
決して泣いて下さるな、笑って下さい。
父の仇はきっと私がとって見せます。

辞世
悠久の大義に生きん若桜 只勇み征く沖縄の空

房姉さんに貰った桐の木は大事に育てて下さい。
家内皆様のご健闘を祈ります。

篤雄

下駄ばき水上機と呼ばれた航空機。米軍航空機や艦砲射撃に対峙するには、機動性がかなり厳しかったのではないでしょうか。。

指宿航空基地戦没者および殉職者の碑

記念碑の前は錦江湾が広がります。この風景を見ながら飛び立っていったのでしょう

下の写真、慰霊碑の下に白い観音様が並べられているのですが、観音様同士の間が隊員の方々の足にみえるんですね。まるで隊員の方々が横並びに立って記念写真を撮らせてくださったかのようにみえるのです。

あとで気づいたのですがなんだか胸が熱くなりました。

指宿海軍基地関連動画

ここでは指宿海軍基地に関する動画をご紹介します。まずは昭和20年5月4日に出撃した琴平水心隊をとらえたと言われる動画


そして、かなり短いですが指宿基地に対する攻撃が行われた際の動画。すでにかなり空襲でやられていたのがわかります。

何年か前に知林ヶ島の空撮を行った動画ですが、一部指宿航空基地のあった場所の空撮も入っています。

指宿の空襲証言

さて、ここからは大正や昭和初期に生まれた方々から伺った指宿の空襲体験について記述いたします。あと10年もすればこういった直接の体験はほとんど聞けなくなると思います。なので、貴重なお話としてご紹介させていただきます。

Aさん
山川の港から遠くで飛行機が落とされているのを見ていた。てっきり日本の飛行機が米軍機を落としているものだと思っていたら日本の飛行機が落とされていたことを後で知った。別な日には海上を飛行機が飛んでこちらに向かってきたので、慌てて逃げた機銃掃射は恐ろしかった

Bさん
空襲で防空壕に逃げていったのをよく覚えている。従兄弟が機銃掃射でお腹を打たれて内臓が出てしまってワンワン泣いてそのまま死んでしまった。悲しくて悔しかったよね。。でも、恨みつらみを言ってもね。。お互いに家族があるんだから。戦争が悪いんだよね。

Cさん
防空壕には畳とかも入れていたりしたよ。指宿は基地方面の空襲が激しかったね。大きな屋敷の家は兵士の休養所として提供を求められたりしてたな。

Dさん
私は基地近くに住んでいたんだけど、そりゃあ怖かったよ。浜辺で遊んでいたら飛行機が向かってきたからあわてて逃げたんだけど、機銃掃射してきてね。子供とか関係なかったよ。

私がお話を聞いて感じたのは、戦争というのは勝ち負けで善悪を判断するのは間違いということ。非戦闘員に向けて過剰な攻撃をすることに正当性はないです。

米軍は空襲する都市に事前にビラで通知をだしていたり、ガンカメラはパイロットの攻撃成果を管理するためにつけられたため、必要以上の機銃掃射を行ったともいわれていますが。。

戦争と対峙した国民にしてみれば互いの不幸しか生みません。実に悲しいことです。

まとめ

戦争も特攻も身近にあったこと。命の心配なく毎日を生きれること。そんなことを感じ、そして散っていった方々に敵味方関係なく哀悼の意を示すこと。

大事にしなければならない歴史の事実がある場所です。観光やおでかけと言えば、華やかで楽しい場所を巡ることが多いですが、是非ともこちらも訪ねてみてください。

※近くのスポット

それではまた(o・・o)/~

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