特攻基地と言えば知覧が有名なわけですが、戦時中、飛行基地は全国に多数あり、鹿児島だけでも17基地あったといわれています。
そのすべてが特攻基地になったわけではなく、飛行訓練場として使われた場所もあれば、建設中にアメリカ軍の空爆を受け、ほとんど活用されなかった幻の飛行基地もあります。
そして今回ご紹介するのが、その幻の飛行基地”まのひ”飛行場とも呼ばれた青戸飛行場跡です。
青戸飛行場とは?
大東亜戦争末期、沖縄がアメリカの攻撃を受け本土決戦が迫る中、知覧や鹿屋、国分などから多くの特攻機を送り込む悲惨な作戦が行われていきました。そんな状況下、陸軍飛行場である知覧では作戦上、知覧基地だけでは手狭になってきたため、加世田の万世とこの青戸に補助基地を造ったのです。
青戸飛行場は昭和19年に試験飛行などで使われましたが、昭和20年3月から空襲に見舞われ、ほぼ使われることのないまま終戦を迎えます。
まのひ飛行場と呼ばれるのはなぜ?
青戸飛行場は、現地の地名をとった、青戸飛行場、もしくは上別府飛行場とも呼ばれますが、案内板には”まのひ飛行場”の文字も見かけます。これは、軍の暗号名であり、元々、枕崎に補助飛行場を建設する予定だった暗号をそのまま使ったためと言われています。
つまりは
枕崎の飛行場=”ま”くらざきの”ひ”こうじょう=まのひ
知覧であれば
知覧の飛行場=ちのひ
となるわけです。
アクセス
頴娃町青戸の県道27号を目安に向かいます。基本的に畑になっているので、下記の地図がわかりやすいかと思います。
地図
※ブログ空港探索・とり様「空港探索・2:上別府(まのひ/青戸)飛行場跡地」の記事より引用させていただきました。→https://airport1111.blog.ss-blog.jp/manohi-airfield
地図の内容は上記引用元により編集されることもありますので、詳細は上記ブログ様にてご確認ください。
青戸飛行場跡の現在
上記の地図をもとに現場に到着すると見渡す限り畑なんですね。
戦争後、この土地は民間に払い下げられたため、ほぼほぼ畑になったようです。
払い下げられたと言っても、吉ができる前の元々の地主さんが買い戻したというのもありそうです。
トーチカ その1
畑にポツンとあるコンクリート製の建物。これが当時のトーチカです。
トーチカはロシア語。日本語では特火点と訳されるそうです機銃掃射などの銃弾から身を守りつつ、銃などで応戦する場所ですが、この当時の日本は深刻な鉄不足だったので、鉄筋ではなく竹を使った竹筋製のコンクリートで造られています。
周囲は私有地の畑なので道沿いから
トーチカ その2
少し南の離れたところに埋まった状態のトーチカもあります
掩体壕
さらに上青戸側には掩体壕が残っています。
上別府地区には、『まのひ(青戸)飛行場』がありました。『まのひ飛行場』は、青戸・加治佐間の通称『加治佐原(かっちゃばい)』の約200ヘクタールの土地に建設されましたが、未完成のまま終戦を迎えました。その当時の様子を思い出させるのが、この『掩体壕』です。掩体壕とは『体を掩いかくす壕』という意味で、土塁を地上四メートル位に機体の形に築き、木竹で擬装するもので、爆撃の際の直撃以外の爆風等の被害を防ぐためのものでした。『掩体壕』は二十基位あり、昭和十九年の終わり頃には滑走路が使用できたため、そのほとんどに飛行機が入っていたということです。
飛行機を隠したと思われる部分は埋められています。
知覧飛行場跡へ
使われることのなかった青戸飛行場。そこから北へ約7km。
有名な知覧飛行場跡。現在は知覧特攻平和会館があります。
全国各地から多くの方が知覧を訪れます。特攻の悲惨さを伝える大事な場所です。
一方で、特攻は知覧だけではなく、各地から出撃していたこと。回天などの人間魚雷などもあったことも忘れてはいけません。
鹿児島県にあった飛行基地
鹿児島県にあった飛行基地一覧です。実際に訪ねて紹介記事を書いた場所は、該当記事にリンクしています。
陸軍飛行基地
海軍飛行基地
水上機
まとめ
正直、縁あって知り合った頴娃の方(青戸飛行場の空爆を見ていた人)から、お話を聞くまで青戸に飛行場があったのを知りませんでした。
それをきっかけに県下の飛行基地を調べましたがこんなにたくさんあったとは・・
まだまだ知らないことばかりです。。
県下でも戦争の体験者は年々減ってきています。
鹿児島に残る史跡と共にそういった歴史背景を学びつつ、未来に歩みを進めていきたいものです。
それではまた(o・・o)/~