鹿児島玉龍高校の裏手に島津本家の殿様たちが眠る墓所があります。今回はそちらに行った時のレポートです。
福昌寺は、応永元年(1394年)島津氏第7代当主島津元久公が妙円寺を建てた石屋真梁を招き建立したといわれています。それ以後、島津氏当主の墓が建てられるようになり島津本家の菩提寺となりました。
江戸時代後期に薩摩藩によって書かれた『三国名勝図会』によると最盛期には約1500人の僧侶がいたという話なので、九州でも屈指のお寺だったと思われます。
また、天文18年(1549)には、鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルがたびたび訪問した寺としても知られてり、十五世忍室文勝和尚とザビエルは深く親交を結び、宗教について大いに語り合ったといわれます。
・島津の殿様たちのお墓はそのまま残る
・大規模な墓地は荘厳な雰囲気をそのまま残している
福昌寺跡の詳細情報
まずはアクセス方法や場所などをご案内します。
住所
鹿児島県鹿児島市池之上町20⇒鹿児島玉龍高校裏手
駐車場
なし※ただし玉龍高校の裏手に回り、福昌寺跡前付近に停められるスペースはあり
公共交通アクセス
JR鹿児島中央駅前から市営バス22番葛山行き→20分→玉龍高校前下車徒歩3分
高齢者・介護者向け環境情報
車で福昌寺跡前までは行けますが、以降、段差多数で手すりはありません。座る場合は階段に腰掛ける形になります。また、トイレなどはないですのでお気を付けください。
地図
福昌寺跡の現在
歴史に残る名所ですが、廃仏毀釈により寺はなくなり、現在は玉龍高校の裏に墓所が残るのみとなっています。6代師久公から28代斉彬公までの島津家歴代の墓や家族の墓が並んでいるのですが、この一か所に集まっているのが信じられないぐらい歴史に名を残した名君が眠られているのです。さらには区画を分けたところに、関ヶ原の戦いで義弘公の影武者として壮絶な最期を遂げた長寿院盛淳。薩摩藩の財政を救い、幕末近代化の資金作りに寄与した調所広郷のお墓もあります。※五代目以前のお墓は出水の感応寺跡にあります。
入り口から立派な灯篭が
中に入ると歴代の島津家の殿様や奥方などのお墓の位置案内があります。
墓地内は荘厳な雰囲気が包み込みます。
戦国期の島津の殿様
島津貴久公のお墓
火縄銃やザビエルを受け入れ、島津家の三州統一を推し進めた貴久公のお墓です。
貴久公とザビエル謁見の地レポートです。
島津義久公のお墓
九州統一目前まで島津家を反映させた義久公のお墓です。
義久公のお墓は県内他所にもあります。
島津義弘公のお墓
関ヶ原の捨て奸や朝鮮の役での活躍があまりにも有名な義弘公のお墓です。
義弘公については以下の記事で詳細を伝えています。
島津家久(忠恒)公のお墓
義弘公の息子であり、義久公の後に本家を継いだ初代薩摩藩主である島津家久(忠恒)公のお墓。義久公の娘である亀寿姫(のちに「じめさあ」として県民に親しまれる)とは不仲でありお墓も離れています。
福昌寺にはない戦国の島津家ゆかりのお墓
戦国の島津家といえば島津四兄弟。そして関ヶ原で壮絶な討ち死にを遂げた豊久公。幕末まで続く島津家中興の祖 伊作島津家の日新公です。
島津歳久公のお墓
島津家久公のお墓
島津豊久公のお墓
島津日新(忠良)公のお墓
幕末期の島津の殿様
島津斉彬公のお墓
幕末の名君といえば、いの一番に名前が挙がる斉彬公のお墓です。
島津久光公のお墓
斉彬公の後を継いだ最後の藩主忠義公の岳父。久光公のお墓です。
玉里邸から国葬でこのお墓まで運ばれたらしいです。
島津重豪公のお墓
斉彬公に多大な影響を与えたといわれる重豪公のお墓です。
福昌寺十二景
かつて福昌寺には、福昌寺十二景と呼ばれるものがあったといいます。現在、そのほとんどは失われていますが現存するものもあります。
菅神廟
※三国名勝図会より
寺西柳渓瀑の嵓下にあり。石屋禅師開闢のとき、嵓間に渡来天神の円記を得て、其所に此廟を建たり。
前記に詳なり。
※「菅神廟」は天神様であり、玉龍高校は天神様に見守られた学校という事になります。何とも縁起の良い学校ですね。
鏡石巌
※三国名勝図会より
寺後の山巌絶壁の間にあり。絶壁の半に一円相を打して、白亜を施せり。客あり門に向へば、大円鏡に封するが如し。
竜灯松
※三国名勝図会より
当寺開山塔の前にあり。往古は時々神龍燈を献して、此松に掛る。其燈の来ること深夜を以てす。始めは海中より一星の火の如く。水を離れて漸く上ること数丈、横さまに流星の如く、遅々として松枝に掛り、暫くして滅すといふ。
残念ながら枯れてしまっています。
柳渓瀑
※三国名勝図会より
当寺の西なる山崖に、渓水一道潟き下れり。其地を柳渓と名づく。其下流蓮池に入る。其瀑下に二社あり。瀧之下宮是なり。
滝があったらしいのですが現在、水の流れはありません。。
歴代住職のお墓
歴代住職のお墓も山手に並びます。
まとめ
個人的には明治の廃仏毀釈が最も悔やまれる場所です。というのは、廃仏毀釈により福昌寺そのものだけでなく、歴代藩主が奉納した寺宝の多くが破壊されたり、行方不明になってしまったからです。
島津氏関係論文巻一「史学雑誌」久保田収「薩摩藩における廃仏毀釈」によると、島津斉彬公の側近であった市来四郎談として、次のような発言が記載されています。
「寺院を廃して、各寺院にあるところの大小の梵鐘あるいは仏像仏具の類も許多の斤高にして、これを武器製造の料に充て、銅の分を代価に算して、およそ十余万両の数なり」
「仏像の始末については、石の仏像は打ち壊して、川の水除などに沈めました。今に鹿児島の西南にある甲突川という川の水当のところを仏淵とよびます。すなわち仏像を沈めたところでござります。木の仏像はことごとく焼き捨てました。」
おそらく残っていれば、山口県萩市にある東光寺(毛利家菩提寺)にも負けない場所になっていたのではないでしょうか。。参考:http://www.toukouji.net/
寺社仏閣の歴史で有名な関西の史跡にも負けない雰囲気
畏怖の念を感じさせる名君たち墓
日本のお寺が持っている独特の空気の落ち着き
これだけの場所なのに、南洲墓地との知名度の差は歴然。
とても残念でなりません…
鹿児島人ならば是非一度は訪れてほしい!そう願ってやまないのです。
近くのおすすめランチ
それではまた(o・・o)/~