島津斉彬公像:時代を見つめる先見性 急逝が惜しまれた最期の名君

シリーズ鹿児島の銅像を巡る~vol.1~

地元にありながら、地元の人が素通りしてしまうもの。

そのひとつが銅像だと思っています。

郷土に貢献し、尊敬を集めた偉人たち。

その姿を時には立ち止まって見てみませんか?

と、いうことで第一弾は、島津斉彬公の銅像です。

鹿児島の観光スポット。照国神社にある島津斉彬公像

島津斉彬公の歴史

誕生

文化6年(1809年)3月 薩摩藩第10代藩主 島津斉興公の長男として誕生。

「蘭癖大名」と呼ばれた曾祖父島津重豪公の影響を大きく受け、海外に強い興味を持つ。

お由羅騒動

ところがこれが災いし、家督相続に多大な影響を及ぼす。というのも薩摩藩の財政を悪化させた島津重豪公の政策を受け継ぐのではと、父 斉興公や調所広郷に代表される重臣たちが危惧したためだ。

結果、斉彬公の家督相続は遅れ、これに業を煮やした斉彬派家来による実力行使が起き、重臣を巻き込んだお家騒動「お由羅騒動(高崎崩れ)」が起きてしまう。

※お由羅騒動については下記記事参照

赤山靭負墓所:お由羅騒動で惜しくも散った西郷隆盛の思想に影響を与えたとされる薩摩藩士 – 鹿児島よかもん再発見!

この件で、斉彬公の家督相続は困難と思われたが、彼を高く評価する江戸幕府家老 阿部正弘により窮地を救われ、嘉永4年(1851年)2月 薩摩藩第11代藩主となるのである。

日の丸の提案

ちなみに「日米和親条約」調印後、日本の船には外国船との区別が必要なため、国旗を制定する必要がでてきた。その際、斉彬公が老中 阿部正弘に進言したのが「日の丸」の旗だ。これは「鹿児島城(鶴丸城)から見た桜島に昇る太陽があまりに美しかったから」という理湯が隠されているのだが、鹿児島県民ならなんとも誇らしくなる話である。

集成館事業

藩主になると斉彬公は、「集成館事業」を推し進める。
集成館とは、アジアで初めての近代洋式工場群のことであり、この工場群で、反射炉や溶鉱炉を作り大砲などを製造、さらに日本初の蒸気船、ガス灯を製造し、ガラス、殖産興業も拡大。富国強兵に努めた。なお、関吉の疎水溝など集成館事業に関わる遺構は今も残り、ガラス工芸品も「薩摩切子」という伝統工芸品として今に伝わっている。

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将軍継嗣問題と最期

ペリー来航後は、朝廷(公)の権威と、幕府(武)を結びつけ幕藩体制の再編強化を図る公武合体を推進。これを優位に進めるため、養女である篤姫を13代将軍徳川家定に嫁がせ、将軍継嗣について、一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派に属した。

しかし、一橋派と対立する南紀派の井伊直弼が江戸幕府大老に就任。これにより将軍は徳川慶福(徳川家茂)に決定してしまう。これに加えて、日米修好通商条約への調印など幕府や井伊直弼の政策に反対する者たちを世に言う「安政の大獄」で弾圧。一橋派の大名たちも罰せられ、隠居や謹慎に追い込まれる大名もでてきた。この状況に危機感を持った斉彬公は藩士5000人を率い上洛を画策するも急逝してしまう。享年50歳。

早すぎる死が惜しまれるがその意志は見事に西郷らに引き継がれた。ただ、もう少し長生きしていたら。。どんな時代になっていたのだろう。そう考えずにはいられない、幕末の名君である。

銅像

照国神社敷地内にあり、大正6年、朝倉文夫によって作製されました。

敷地内とはいえ、本殿側から脇に入るため、人影はまばら。

広々とした目の前の敷地がちょっとさみしく思えます。

西郷隆盛像、大久保利通像におされがちですが、彼らの上に立った大偉人。

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もっと注目してほしい銅像でございます。

高齢者・障害者向け環境情報

かごしますいすいナビにて、車いす環境などよくまとめられています。
http://www.pref.kagoshima.jp/suisui/pc/area/k-hokubu/22990/

島津斉彬公像 地図

 

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