赤山靭負 墓所:お由羅騒動で惜しくも散った西郷隆盛の思想に影響を与えたとされる薩摩藩士【鹿児島市日置市】

今回は日置市日吉町にある赤山靭負墓所のご紹介です。

また、赤山靱負ご本人についても、幕末の歴史好きなら知っている人も多いのですが、一般的にはあまり知られていない。。(^^;)と、いうことで、まずは赤山靭負という人物についても一緒にご紹介していきます!

この記事を要約すると
・赤山靱負の人生についてご紹介
・赤山靱負のお墓の場所や状態は?
・西郷隆盛への影響について

お墓へのアクセス

日置市伊集院町から南さつま市に向かう県道37号線の日吉町市街地手前付近にあります。以前は道路沿いに車を停めていましたが、大河ドラマ効果で駐車場が整備されました。その後、あぜ道を歩いていきます。トイレはないです。ハチやヘビなどにお気を付け下さい。足元が不安な方は杖があるほうが安心と思われます。

地図

赤山靭負の生涯

まずは赤山靭負の生い立ちからいってみましょう!

生い立ち

赤山靭負(ゆきえ)は文政6(1823)年1月。戦国期における島津四兄弟の三男 島津歳久公を祖とする日置島津家に生まれました。

⇒島津歳久公とそのゆかりの地についてはコチラ

父は日置島津家12代当主島津久風公。兄は第29代島津本家当主 島津忠義公の主席家老を勤めた島津久徴。弟は西南戦争で西郷隆盛と共に城山で戦死した桂久武

そんな環境で生まれた赤山靭負は

  • 天保12(1841)年 小納戸見習行奥小姓
  • 天保15(1844)年 江戸滞在中に供目付を兼務
  • 弘化 3(1846)年 槍奉行

その翌年には、軍役方掛と藩内での要職を歴任します。

赤山靭負と西郷隆盛との関係

順風満帆な出世と実績を積み重ねてきた靭負ですが、御用人には西郷の父である吉兵衛がいた関係から、その息子である西郷隆盛とも親しい間柄だったと言われています(4歳という歳の差や郷中教育を考えると、おそらく兄貴のような存在だったのではと考えられます)

ただ、そんな靭負の人生に暗雲がかかりはじめ…

暗雲

時の薩摩藩では、58歳になった島津斉興公が息子である斉彬公になかなか家督を譲ろうとしない状態が続いていました。

この理由の一つとして、息子の斉彬公に対して、藩財政を極端に悪化させた祖父島津重豪公の姿を重ねた事が考えられます。斉興公の祖父、つまり斉彬の曽祖父にあたる重豪公は、西洋などの文化品を好み、薩摩藩内に数々の開化政策を施した人物だが、蘭癖大名と呼ばれるほど多くのお金を派手に使ったと言われておりましたので。。

この重豪公の浪費が原因で、薩摩藩内の財政は急速に悪化。最終的に500万両という借金を抱えることになってしまいました。斉興公は、負債を家老 調所広郷や豪商 濱崎太平次らの活躍でようやく改善してきたところだったため、重豪公の思想を色濃く受けた斉彬公への家督移譲による財政悪化を危惧していたと考えられます。

また、悪い事は重なり、斉興公にはお由羅の方という側室がいたのだが斉興が最も愛した女性だったといわれており、その子久光公をかわいがっていた。これも家督移譲に影響を与えたとも…

ただ、なかなか進まない家督相続に対し、斉彬公を慕う家臣団の一部はおおいに不満を持っていました。その中には靭負の姿もあったんですね。。

お由羅騒動

そしてついに、彼らは「斉興隠居・斉彬擁立」へと動きだし活動を始めます。ところがこの反体制派の動きはいち早く斉興公の耳に…

この計画を知った斉興公は烈火のごとく激怒。ことの中心人物である高崎五郎右衛門と近藤隆左衛門の両名に切腹を命じ、これに関わった者達に対しても、切腹や遠島、謹慎といった重い処分を下します。これがいわゆる「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動です。※この時、大久保利通は失職し父利世も喜界島に流罪となっています。

そして、赤山靱負もこの騒動の中心的人物と目され、切腹を命ぜられこの世を去ることとなります。

切腹

その際、介錯をしたのが、西郷隆盛の父である西郷吉兵衛だったといわれています(吉兵衛は靭負の遺言を聞き、臨終を見届けて一切の処置をとったが、介錯をしたのは加藤新平だったという説もあり)

西郷隆盛の涙

吉兵衛は靭負の血染めの肌着を貰いうけ、子の隆盛はもちろん家の者にその最期を伝えます。青年の頃から赤山の影響を受けて育った西郷は、赤山の見事な切腹の様子を父から聞くと、鮮血のついた肌着を拝して号泣し、終夜その袖を抱いて泣きながら過ごしたといわれており、西郷に大きな影響を与えた事件だといわれています。

そして、無念の死を遂げた赤山の意志を受け継いだ西郷はさらに大きく飛躍していくのです

赤山靭負のお墓

さて、ここからは赤山靭負のお墓の現在です。赤山靭負のお墓は、日置市日吉町日置の桂山寺跡にあります。

※関連記事

桂山寺跡の仁王像に向かうあぜ道の途中 img_2139

左手に案内が。。ん、、ここを進むのか。。ちと険しい。。
img_2145

竹が茂っているが、切り開いてくださっているあとがある。地元の方や教育委員会の方々でしょうか。。感謝いたします。

そして、進んでいくと。。ありました。途中、クモの巣が多いです。クモには申し訳ないのですが振り払いましょう(笑)
赤山靭負

img_2144

これが赤山靭負のお墓。桂山寺跡にある島津忠隣公のお墓もそうですが、ちょっと状態がつらい。。
赤山靱負墓

img_2142

その他にも島津家のお墓などがあります。一番左は赤山家の祖赤山久辰の墓塔です。
img_2141

2018年の大河ドラマが「西郷どん」ということで、おそらく手が入るでしょうが、継続して守っていくには限界があるでしょう。少なからず訪ねた時は少しでも綺麗にして墓参したいものです。

大河ドラマ西郷どんと赤山靭負

この記事を書いたのが2016年9月だったのですが、2018年10月に再訪しました。すると・・

駐車場ができています!!

そして道案内も!道も綺麗に!!

案内板もリニューアル!

お墓の前は切り開かれ光がさすようになりました!

お墓も綺麗になった気がします。。

綺麗になったことはいいことなのですが、注目され人が来るようになったから綺麗にするというご都合主義に若干、疑問も感じます。。

少しでも良い状態を維持していきたいものです。。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

交通の便が少々厳しい場所ですので、行かれる際はタクシーもしくはレンタカーなどのお車でいくことをお勧めします。

それではまた(o・・o)/~

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