鎌倉から幕末まで続いた島津家。

その中でも、島津家の教育体制に最も影響を与えたのが島津忠良(日新)公です。

今回はその島津忠良(日新)公の菩提寺でもあった日新寺跡、現在の竹田神社を訪ねてきました!(^^)/

アクセス

住所は南さつま市加世田武田17932。国道270号線をすすめばわかりやすいと思います。

高齢者・障害者向け環境情報

竹田神社への参拝はスロープがよく整備されており車いすも問題ないです。車いす用のトイレもあります。いろは坂も車いす可能ですが、各種墓所などへは舗装はないため困難かもしれません。

地図

竹田神社とは

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古くは加世田城。その後、室町時代の保泉寺を経て、日新公の菩提寺となってからは日新寺となります。
明治2年廃仏毀釈により廃寺となり、明治6年、社殿が造営され竹田神社となりました。

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日新寺時代は、江戸時代の島津歴代藩主は任期中、必ずこの寺に参拝したといいます。

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祭神である島津忠良公(日新公)は戦国の歴史好きならだれもが知り、鎌倉から明治幕末へと続く島津家の家風を作り上げた中興の祖です。

島津忠良公(日新公)とは?

忠良公は島津分家の伊作島津家の出身で、幼いころに父を家臣に殺されています。

しかし、母である常盤の局の立ち回りにより相州島津家の当主となり領地に善政をしいたといいます。その名声により当時弱体化していた島津本家当主の勝久公から、忠良公の嫡男である虎寿丸(のちの貴久公)を本家当主に迎え、後見人に忠良公をという話に繋がっていきます。

天文19年(1550年)貴久公が伊集院にある一宇治城から鹿児島内城に移ると加世田に本格的に隠居。一方で、琉球を通じた明との貿易や、鉄砲の大量購入、家臣団の育成に励んだといわれています。

また、忠良公は団結を歌った『いろは歌』の創作でも有名です。

「いにしへの道を聞きても唱えへてもわが行いにせずばかひなし」に始まる歌ですが、 儒教の精神を基礎とした忠良公の教育論は、孫である義久公、義弘公、歳久公、家久公に受け継がれることとなり、幕末まで続く薩摩藩士の郷中教育の規範となり現代にも大きな影響を与えています。

四人の孫に対しては「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て他に傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と高く評し期待していたといわれています。

その実、九州平定直前まで島津家は隆盛を極めるので先見の明もあったのでしょう。

そんな忠良公は、永禄11年(1568年)77歳で加世田にて死去されています。

 

より詳しくわかりやすい説明は鹿児島県による「戦国島津氏について」のページが勉強になりわかりやすいですよ!(^^)/

日新寺詣り

鹿児島にはかつて「鹿児島三大詣り」というものがありました。島津義弘公を偲ぶ「妙円寺詣り」や、島津歳久公を偲ぶ「心岳寺詣り」そして、島津日新(忠良)公を偲ぶ「日新寺詣り」です。

それそれの命日に鹿児島城下から夜通し歩き、お詣りし、また戻るというこの行事。戦後に「心岳寺詣り」と「日新寺詣り」は途絶えてしまいましたが、「妙円寺詣り」は今に伝えられています。

現場レポート

竹田神社内には多くの見どころがあるのでご案内していきます(*´▽`*)

いろは歌四十七碑

昭和59年には竹田神社と日新公墓地の間を結ぶイヌマキ並木の道に「いろは歌四十七碑」が建てられ「いにしえの道」と名づけられ、今も郷中教育という薩摩の家風、人の道、生き方、人の上に立つ者の心得などを歌の形で伝えています。

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道としても歩いていて気持ちのよい道です。

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常潤院跡

戦国時代の天文21年(1552)頃に建てられた日新寺の学問所。日新公や日新公夫人の墓所などがあります。

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島津忠良公墓所

まずは忠良公のお墓。とても綺麗にされています。歴代の島津家の殿様もお参りに来られたかと思うと、背筋が伸びます。

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島津尚久公墓

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尚久公は日新公の三男です。大隅肝付氏との廻城奪回戦の後に病にかかり、1562年死去。享年32。殉死者である尾辻佐左衛門の墓もそばにあります。枕崎の桜山安住寺跡にも伝として島津尚久公墓があり、こちらは分骨墓ではないかという話もあるらしいですが真意は定かではないです。

なお、廻城そばには、廻城奪回戦で討ち死にした尚久公の兄忠将公の慰霊碑があります。

冨松左京の墓

加世田別府城攻めで戦死した日新公の重臣の墓

井尻神力坊(宗憲)の墓

日新公の命により22年の歳月をかけ諸国を歴訪した修行僧。1575年の帰国時、日新公の死去を知り愕然。出家の身から殉死できないことを悔やみ、ついに 大木の下に岩を置き、木に登って岩目がけて真っ逆さまに落ちて死んだといわれています。※7代目鹿児島県知事である伊藤知事の先祖と言われている。

歴代住職の墓

代々の住職の墓も並びます
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この碑については詳細がわかりませんでした(^^;)

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近くの史跡

竹田神社のすぐそばには日新公ゆかりの遺構である六地蔵塔があります。これは、日新公が1540年に立てた供養塔であり、加世田別府城の攻防をはじめ、戦国武将・武士たちを敵味方なく供養したものだといわれています。

当時は毎年盆に領内の僧、戦没者遺族、重臣・将卒たちを集めておごそかに供養したそうです。その際、日新公は塔の前に進み、戦で亡くなった者の名を声高く呼び、その勇士たちをたたえたので領民たちはこの慈愛に感激して涙を流したといいます。残念ながら当時の供養塔は、加世田川の洪水で流され現在の塔は1597年に日新寺の住職泰円和尚が再建したものだそうです。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

どうしても幕末の歴史ばかりがクローズアップされがちな鹿児島ですが、幕末の偉人を輩出した郷中教育のルーツに触れてみるのも面白いかもしれません。

南さつま市や日置市は戦国島津家の痕跡が数多く残されています。気になる方は下記にまとめていますのでご覧くださいね(^^)/

 

それではまた(o・・o)/~

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