甑島に残る里武家屋敷跡を訪ねてみた

甑島を訪ねるにあたり、その自然風景や島で獲れるお魚などを楽しみにしていたのですが、それらを調べる過程で発覚した、大事なポイント!(個人的に)

甑島には

武家屋敷跡がある!

本土の武家屋敷跡は、いくつか訪ねてきましたが、島の武家屋敷跡は今回が初めて(*´▽`*)

ワクワクしながら、上甑島と下甑島にある、それぞれの武家屋敷跡に向かってみました。なお今回は、里武家屋敷跡のご紹介です!

注意
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甑島の武家屋敷跡とは?

甑島に武家屋敷ができたルーツをまずは簡略化してご案内。時代は鎌倉時代。源頼朝の御家人であった小川氏は、承久の乱にて奮戦した恩賞として甑島を与えられ、上甑島の小山に亀城を築き甑島に土着化。約400年にわたり小川氏による甑島統治(島津家に属すなどしながら)が行われます。小川氏はその後、太閤検地の折に国替えとなり、以降、甑島は島津家が領有。慶長16年(1611年)からは、地頭が派遣され以後、長きにわたり島津家により統治されていくのです。

亀城跡

上甑島の里港からほど近い場所にある亀城跡。里小学校の裏手にあたり、小高い小山には亀城跡の案内板や碑、展望台があります。写真を撮りそびれましたが、この小山の周囲は角ばった石垣が現存しています。江戸時代に整備されたと思われる麓の武家屋敷跡の石垣は玉石状です。

釣鐘の存在

展望台の下には釣り鐘があります。これは、大正9年に教育勅語30年を記念し里村青年団が亀城跡に鐘楼を建設、その際に設置された釣鐘だそうです。釣鐘は「ドン」という愛称で住民に親しまれ、鐘が打たれると「ドンが鳴った」と言われたとのこと。時間を知らせるものがあまり浸透していなかったため、役場の職員が定刻に釣鐘を打って、麓の住民に時間を知らせていたとのこと。

ただ、今は老朽化が進んでいるため、釣鐘を打つことはないようです。※いたずらで打たないようにしましょう

亀城跡の場所は?

里港から歩いていける距離にありアクセスしやすいです。

  • 住所:鹿児島県薩摩川内市里町里1683
  • 地図(GoogleMap

里武家屋敷跡の様子

亀城の麓にある里武家屋敷跡。散歩しているだけで気持ちの良い道です。

実に綺麗な玉石垣の道

電線やミラー、舗装された道路など現代の生活と融合しながら、景観を保っています。

課題は高齢化が進み居住者が少なくなっていっていることでしょうか・・

里武家屋敷跡の場所は?

駐車スペースなどはないため、里港から歩いていきましょう。

  • 住所:鹿児島県薩摩川内市里町里
  • 地図(GoogleMap

里八幡神社の存在

里武家屋敷跡入口には里八幡神社があります。里八幡神社は、薩摩川内市にある新田神社から瓊瓊杵尊の分霊を奉じ、嘉祥二年もしくは嘉応二年に創建されたと言われているそうです。

里八幡神社では、10月の第3日曜日(旧暦9月19日)に正祭が行われ、前日の土曜日の夕方と日曜日の朝に”内侍舞”が奉納され、

午後から、神社脇の土俵で相撲が行われるそうです。

里八幡神社の内侍舞とは?

以下、現地案内板より

鹿児島県指定無形民俗文化財
甑島の内侍舞(「古式の直会」を含む)
平成十三年四月二十七日指定

毎年、十月の第三土曜日夕方から日曜日にかけて(従来は旧暦九月十八日・十九日)里八幡神社の秋の大祭で奉納される内侍舞は、由来が古く、格調高い舞といわれています。

大祭は、式典次第に従って行われ、神楽太鼓の音とともに内侍舞が始まります。

内侍は〈マツジョウ〉と呼ばれ、毎年、年番の地区の女子中学生から選ばれ、髪に髢(かもじ)を付け、綿入りの赤紐を六本垂らした真鍮製の冠をかぶり、紋付の着物に前掛けと麻製の打ち掛けを羽織り、伝承の順と型通りに神楽太鼓の音に合わせて舞います。

内侍舞の後、直会〈オミキビラキ〉があります。ふつう直会は、神事終了後に席を改めて撤下した物(神前にお供えした物)を戴きますが、ここ八幡神社の直会は祭典の一環として行われる「古式の直会」で、内侍舞と共に県下でも貴重な神事といわれています。

また、二日目の午後からは相撲大会が催され、相撲甚句にあわせて相撲踊りも奉納されます。

平成二十二年十二月   薩摩川内市教育委員会

甑島の内侍舞(「古式の直会」を含む)
内侍舞の動画

里八幡神社の大般若波羅蜜多経とは?

里八幡神社には、貞亨5(1688)年に寄進された”大般若波羅蜜多経”という経典群が廃仏毀釈を逃れ、現在は県指定有形文化財として川内歴史資料館に保管されているそうです。→県文化財PDF資料(里八幡神社の大般若波羅蜜多経)

以下、現地案内板より

鹿児島県指定文化財
里八幡神社の大般若波羅蜜多経
平成三十年四月二十日指定 管理者 薩摩川内市

八幡神社の創建は定かではありませんが、『薩隅日地理纂考』や「甑島旧跡考』などによると、嘉祥二年(八四九)に仙台の新田神社の宮里壱岐神主が瓊瓊杵尊の分霊を奉じ、里に八幡神社を創建したとされています。

本殿はケヤキ造りで、鞘殿の中に納まっており、本殿の内陣(神座の前)に大般若波羅蜜多経(全六百巻)は保管されていました。

大般若波羅蜜多経は中国唐代の僧侶で、三蔵法師で有名な玄奘三蔵が、インド等から般若経典群を持ち帰り漢訳した、全十六部六百巻に及ぶ経典群の総称です。

奉納されている大般若波羅蜜多経は、江戸時代初期の寛文一〇年(一六七〇)に京都で版行されたもので、甑島でイワシ漁が盛んだった十七世紀末の貞享五年(一六八八)に阿久根のイワシ漁関係者がそれぞれ豊漁を祈願し、寄進したものと考えられます。

薩摩藩は、江戸末期から明治初期にかけて徹底した廃仏毀釈を行い、藩内の寺院は全廃され、寺院の仏像・経典なども破壊されています。里町内では、トバシラドンに仏像・経典が集められ、焼かれたと言われています。こちらの大般若波羅蜜多経は、神社に保管されていた為、その難を逃れたと考えられます。

全巻そろっていることは県内唯一で、大変珍しく貴重な文化財として、県指定有形文化財に指定されました。現在は、川内歴史資料館に大切に保管されています。

平成三十一年三月   薩摩川内市教育委員会

里八幡神社の大般若波羅蜜多経
里八幡神社の場所は?
  • 住所:鹿児島県薩摩川内市里町里1593
  • 地図(GoogleMap

    まとめ

    本当は下甑島の手打武家屋敷跡も一緒にお伝えしようと思っていたのですが、ボリューム的におさまりませんでした(笑)

    それだけ濃密な場所とも言えるので、里の武家屋敷跡だけで満足するのはもったいないし、逆に手打の武家屋敷跡だけに行って満足するというのももったいない話なのです。

    次回は手打の武家屋敷跡をご紹介する予定ですが、いずれも甑島の素晴らしい歴史と文化が根ざした場所です。どちらも訪ねてみてくださいね!

    甑島の宿泊:現在の空き状況はこちらから

    それではまた(o・・o)/~

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