鹿児島の特攻基地跡や飛行訓練施設跡を訪ねつづけて十か所目
今回は『海軍航空隊出水基地跡』を訪ねました。
なお、鹿児島県にあった飛行基地は未完のものも含め以下の通りです。実際に訪ねた場所は、記事化し基地名にリンクを貼っています。
鹿児島県にあった飛行基地
鹿児島県にあった飛行基地一覧です。実際に訪ねて紹介記事を書いた場所は、該当記事にリンクしています。
陸軍飛行基地
海軍飛行基地
水上機
海軍航空隊出水基地とは?
出水基地は昭和12年(1937)年に飛行場の建設が始まり、昭和18(1943)年4月に開隊。昭和19(1944)年に国分分遣隊を設置、同年8月に国分分遣隊が独立して、国分海軍航空隊が開隊しました。昭和20(1945)年2月11日、出水海軍航空隊は解隊し、国分海軍航空隊が第一出水海軍航空隊と改称されます。同年4月以降、出水基地は特攻基地として銀河隊等が進出し、沖縄の米機動部隊に対して攻撃を行い、約200名の特攻隊員が出撃しました。現在地下壕に入ることができる鹿児島県内唯一の施設です。周辺に遺構も残っています。
出水特攻碑公園について
特攻隊員に対する慰霊碑が当時の戦闘指揮所地下壕の上に建立されており、その周囲は公園化されています。公園内は地下壕や哨舎、出水近海で見つかったプロペラなどがあり、公園前の道は桜並木となっており春には桜が咲き乱れるとのこと。慰霊碑には「雲こそわが墓標 落暉よ碑銘を飾れ」とあり、「南の海に散る身には、雲こそが墓じるしだ。夕日よ、心あるならこの雲を紅に彩ってくれ」という意があり、出撃を前にした特別攻撃隊員の心境を詠んだものだそうです。
特攻神社について
御祭神
- 元海軍中佐 関 幸男命
- 元海軍大尉 金指 勲命
- 全国特別攻撃隊散華之命等
由緒
当神社は、昭和十八年四月一日開隊された出水海軍航空隊の守り神として建立された。後になって同航空隊が出水基地特別攻撃隊となるや、出撃する特攻隊員の総てが当神社に使命の成功を祈願して出撃した。大東亜戦争の終結により航空隊は解散し神社も放置され、神社跡地には杉木が植樹され発見されていたが、宅地造成により、神社の台座が発見されたので、箱崎八幡神社田上宮司が当地を買い取り「特攻神社」を建立して特攻隊員として戦場に散った命たちを祀るとともに祭神のご神徳をひろめ、崇敬者はじめ特に神道を正しく理解する青少年を育成するために設立した。
掩体壕について
飛行機のみならず、物資や人員などを敵の攻撃から守るための施設。本土だけでなく喜界島などの離島にも残っているそうです。
海軍航空隊出水基地跡の場所は?
海軍航空隊出水基地に関する残存施設や慰霊碑の場所の案内です。複数箇所にありますので、個々で場所をご案内しています。
特攻碑公園の場所
- 住所:鹿児島県出水市平和町149番
- 利用可能時間 地下壕は9:00~17:00
- 駐車場 17台
- 地図(GoogleMap)
特攻神社の場所
- 住所:鹿児島県出水市知識町346
- 地図(GoogleMap)
掩体壕の場所
掩体壕の①と②はすぐそばにあり、駐車場やトイレの整備も始まっています。※2020年中には完成しているはずです。
その他
現地案内では他にも当時のものが残されている場所があるようですが、確認しきらなかったです。。とりあえずGoogleMapで見れた「気象観測所跡」のみ画像キャプチャでご案内しておきます。
海軍航空隊出水基地跡の現在の様子
特攻碑公園の様子
慰霊碑前にて。春の桜に包まれた状態の時はきれいでしょうね。
駐車場側には案内がまとめられています。
哨舎。攻撃による破損がみられます。入ってみましたが、機銃掃射や爆弾が落ちてくることを想像するとコンクリートとはいえ、生きた心地がしません。。
地下壕。先の大雨による浸水で入場禁止になっていました。残念・・
海中から引き揚げられた、プロペラ機の残骸。鳥のフン害がひどくて、留まっていたカラスに怒りを覚えました。。ただ、彼らに人間の歴史は関係ないのです。。
特攻神社の様子
数年前に綺麗に建て直されたそうで、日々の管理も行き届いており綺麗な神社でした。
お参りされる方がいたので中の撮影は自粛
特攻隊員の像。知覧の像は、覚悟と悲しみがあふれ出てましたが、こちらは気高さ、誇り高さを感じさせる像になっています。
掩体壕の様子
掩体壕は以前、鹿屋で拝見しましたが、こちらもなかなかの大きさ。出水には3か所、破損具合もそれぞれですが残っています。この写真の掩体壕はGoogle mapでは「掩体壕①」と表記されています。
ちょうど駐車場やトイレの整備をされていたため、今後は車もとめやすくなると思います。
まとめ
特攻だけでなく、多くの悲しみが生まれた戦争
特攻という理解しがたい作戦
どう考えても回避すべきことなのですが、「やっちゃダメ」「当時はおかしかった」で、片づけてはいけません。
どういう経緯でそれは起こったのか?どんな想いで飛び立ったのか?
憎むべきは旧日本軍の軍部なのか?連合国なのか?
関わった人々、それぞれの国を越えすべての人が被害者。それが戦争。
二元論の正義と悪では片づけられず、どちらも正義があり、どちらも悪であるのが戦争なのです。
上記は、さまざまな基地跡を巡った私の私見ですが、こうして多くの戦争の傷跡と対面し、戦争と平和について考えることが、敵味方関係なく失われた命への慰霊だと思うのです。
それではまた(o・・o)/~