密貿易と薬が薩摩を強くした?
青木流芳院のある南さつま市大浦町の近くには坊津があります。坊津は古くからの港町で、鑑真の上陸地としても有名です。琉球や中国大陸との貿易が盛んだった港町ですが、江戸時代に鎖国となってしまったため、坊津の港での貿易は表向きは難しいものになっていきました。
そこで薩摩藩は幕府の目をかいくぐり密貿易を行います。
この密貿易。取引された品目でよく知られているのが、”大河ドラマ 西郷どん”でも出てきた砂糖です。しかし、砂糖ばかりが密貿易の品目というわけではありません。
薬の原料などもそのひとつだったのです。
富山の薬売りと昆布ロード
いきなり薬と無関係な話と感じるかもしれないですが「昆布ロード」というのを聞いたことはありますか?
江戸時代中期から明治にかけて、当時の中国は清という国が治めていました。その清では、風土病の予防のために昆布が求められていたのですが、清の統治する海は昆布が育たず大量の昆布を欲していたのです。
このため、松前藩が統治する蝦夷地(北海道)で収穫された昆布が、清で高い需要があることに目を付けた薩摩藩は、これを密貿易の貿易品に入れることを画策しますが、薩摩からは距離が遠く入手が難しい。
その時、この問題をカバーしたのが富山の薬売りです。
富山藩の一大産業である富山の薬売りは、全国を行脚し独自のネットワークを構築していましたが、薩摩だけは難しい状態が続きました。というのも、当時の薩摩は他藩の人間を容易に国に入れさせない方針をとっていたためです。そんな中、でてきた昆布の話。富山の薬売りからすると、蝦夷から薩摩へ昆布を流通させることは、薩摩入国の突破口になりうる事案でした。
また、薩摩からしても貿易品となる昆布を大量に仕入れ儲けるだけでなく、諸国の情報を知る富山の薬売りとの関係は大きなプラスになったのです。
これにより、蝦夷地から薩摩・琉球を経て、清まで届けられる昆布ロードが生まれました。ちなみに富山の薬売りは、薩摩へ昆布を融通しただけでなく、密貿易により取引された日本ではなかなか採取できない大陸由来の生薬を富山に持ち帰り薬の製造にも力を入れます。まさしく貿易の基本である、全員が得する貿易をしていたのです。
クスノキと樟脳
さて、昆布だけなく薩摩からも薬の原料となるものが清に売られていたことについてはご存知でしょうか?それが、クスノキから採取される香り成分の結晶『樟脳』です。
この『樟脳』日本から海外への販売は、薩摩藩産のものがほとんどだったというので驚きです。
そういわれてみると鹿児島にはクスノキの大木や古木が多いですよね。そのすべてがというわけではないですが、これだけ多く残っているということは、クスノキが薬の原料として藩に管理されていたという歴史が背景にありそうです。
薩摩藩と薬園
薩摩藩は以下の薬園を作り、製薬や研究を重ねていたと言います。吉野薬園跡は現吉野小学校ということで見学は、吉野小学校に許可をもらう必要があるようです。
- 山川薬園(1659年に設置)
- 佐多薬園(不明 1687年にリュウガンを植えたという記録あり)
- 吉野薬園(1779年に設置)
- 屋久島薬草園(島津重豪公藩政時代に二か所)
行けそうな薬園跡はまた時間を作って訪ねてみます(^^)/
いろいろな薬の歴史を詰め込んでしまいましたが、薬と幕末の薩摩の関係性として、薬というものをベースに原料の密貿易、それに追従し商人から全国各地の情報を集めることで、財政面、情報面で幕末に薩摩が強い力を持つことができたとも言えそうですね。
次のページでは青木流芳院の見学の様子をご紹介!(^^)/ → 青木流芳院の見学
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