‎青木流芳院:江戸時代から今に至る薩摩の伝統薬と幕末の動乱と関係の深い薬の歴史に迫る

歴史や文化というものは、なにも史跡に限ったものではなく、生活に密着した生活文化というものがあります。

その土地にどんな人たちが住み、どんな仕事をして、どんな食生活をおくり、一生を過ごしていたのか。。時代の変化で現代では薄らいでいるものもありますが、各地域にはさまざまな生活文化が残っているものです。

今回はそういった視点から、江戸時代より家伝薬として南さつまに広まっていた青木流芳院と、幕末の動乱にもつながる薬の歴史についてご案内いたします!

青木流芳院と製薬の歴史

青木流芳院は、江戸時代に南さつま市大浦町(旧・加世田郷)で治療院を営み、地域の方々の診療にあたっていたのですが、その治療のために漢方の知識や生薬の知識を活かし、製薬を行っていたそうです。

簡単に言うと、村のお医者さんで、村に住む人々の生活スタイル、仕事などを十分に把握、考慮し、彼らが健康を維持できるよう、病気やけがが治るように、薬の製造も治療手段の一つとしておこなっていたということですね。

これは別段特別な話ではなく、実は全国的に有名な「浅田飴」や「太田胃散」「龍角散」「後藤散」なども似たような経緯があったりします。殿様に仕えた由緒ある御典医というのは、ごくほんの一部で、多くの町医者は地域で患者と向き合い、その過程で苦労しながら生まれたのが家伝薬と呼ばれる伝統薬ということです。

青木流芳院は現在18代目。今も江戸時代から伝わる『加世田のちのくすり』という家伝薬を製造されています。

しかし、こうして言葉で伝えるのはとても簡単ですが、今の時代にそれを持続していくことはとても大変なこと…

こちらは30年以上前にまとめられた鹿児島の製薬業者をまとめた資料。

このリストの事業者をネットで調べてみると、令和元年6月現在で”確実に”確認できたのは7事業者のみ。うち家伝薬というものを今に伝えているのが5事業者。この30年ほどでなくなってしまった事業者の伝統薬は廃業と共に消滅してしまいました。廃業したある3つの事業者は江戸時代から続いていたものだったのですが。。もう、その薬が蘇ることはないのです。。

このページの事業者はすべて廃業…伊集院にあった松崎講和堂は御典医だったらしいです。ちなみに管理人は小学生時代この松崎講和堂の前を通って学校に通っていました。いつも漢方独特の香りが家の前に漂っていたのを思い出します。。

このページは3事業者が今も頑張っています。丸一製薬さんの白紅は有名ですね

このページは知覧の森回春堂(創業江戸期)さんのみ。ホームページはありませんでした。地元の薬局で販売されているようです。

そして青木流芳院さん、CMなどで有名な新生堂薬品さん、吉見天寿堂さんが並びます。ちなみに吉見天寿堂さんも元は坊津にルーツを持つようですね。

青木流芳院

こうして地域と密接に関係のあった家伝薬ですが、近年になり、生薬の高騰や様々な規制や制約で製造の継続が厳しい状態が続いています。

また、そういった実情を調べると、伝統薬というものが時代時代の人間の生活により密着したものだったというのがわかってきました

では、続いて薩摩の伝統薬と幕末の動乱の関係性についてご紹介します。→次ページ 密貿易と薬が薩摩を強くした?

次ページへ急げ!!(^^)/

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