「明くれど閉ざす雲暗く~薄(すすき)かるかやそよがせて~」
鹿児島三大行事のひとつ妙円寺詣り。管理人も小学生の折、上記の歌を歌いながら徳重神社を目指して歩いた経験があります。
しかし当時、小学生ながら疑問に感じていたのです。
「”妙円寺詣り”なのに、なんで徳重神社なの??」
そこのところの事情も含め、まずは妙円寺詣りについて簡易的にご紹介していきます。
妙円寺詣りとは?
1600年。かの関ケ原の戦いにおいて、西軍総崩れの中、正面への敵中突破を試み、大坂の人質共々薩摩への帰国を果たした島津義弘公とその主従の苦難をしのび、行われるようになった鹿児島の三大行事のひとつ。
旧暦の9月14日。鹿児島城下の武士たちは甲冑に身を包み、心身鍛錬の意も込めて、往復約40kmを義弘公の菩提寺であった妙円寺にお詣りし、夜を徹して歩いたと言われています。(明治維新の立役者、西郷隆盛や大久保利通らもされていた)
明治以前は妙円寺詣りと同様に、日新公菩提寺の日新寺(現竹田神社)詣りや、島津歳久公菩提寺の心岳寺(現平松神社)詣りがあったらしいですが、現在、その風習は途絶えてしまいました。
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なぜに徳重神社に?
妙円寺詣りについては明治以降、身分関係なく行われるようになりましたが、廃仏毀釈により妙円寺は廃寺に。そののちの明治4年、同地に義弘公の木像をご神体とした徳重神社が創祀されたのを機会に、徳重神社にお詣りするようになったと言われています。
それから9年後の明治13年。徳重神社の西側に妙円寺が復興されます。場所は変われど、義弘公の菩提寺である妙円寺。本筋という表現が良いかはわかりませんが、廃仏毀釈の折に当時の住職らによって守られたご位牌なども当然こちらにあり、義弘公由緒のお寺として現存しております。そういった点も踏まえ(ふまえる必要もないのですが・・)個人的に優先すべきはこちらだと私は考えております。。
現在の法智山妙円寺
徳重神社そばの交差点から脇道に入っていくと、歩いて数分で到着する妙円寺。ちょっと道が狭いので、車の場合徳重神社に停めて訪ねるほうが安心かもしれません。
開山 石屋真梁禅師の碑がすぐ右手にあります。 石屋間真梁禅師についてはコチラを参考にしてください。
本堂です
入口前の仁王像
猫を大切にした義弘公の菩提寺らしい。猫たちが集まっています。
せっかくなのでお詣りしたかったのですが、この日はお忙しそうだったので静かにあとにしました。
住所
日置市伊集院町徳重521
TEL
099-272-2441
ホームページ
地図
徳重神社(旧妙円寺跡)の現在
妙円寺から再び、徳重神社へ向かいます
御祭神は「精矛巖健雄命(島津義弘公)」
妙円寺詣りの歌。。懐かしいです。
徳重神社の紅葉
境内はイチョウなどの紅葉がみごとでした。
島津義弘公殉死者地蔵塔
境内の西側には義弘公に準じた家臣たちの地蔵塔があります。1632年建立とのことですが、比較的状態が良いです。
妙円寺の石仏と歴代住職のお墓
境内西側より、かつての石仏や歴代住職のお墓にお参りすることができます。
墓参を済ませたら石仏にお参りに。。すると・・
驚きました。。仏様の上には紅葉が赤々としており、御前には金色の海のごとく、イチョウの葉が!極楽というものがどういうものか想像できませんが、なにやらそんな雰囲気を感じさせる光景です。
おそらく地蔵塔も含め、妙円寺の方が綺麗にされているものと思われます。今まで荒れ果て、放置された石仏やお墓もみておりますが、やはり人の手が行き届いている場所は柔和な空気感がありますね。。
こちらの仁王様は、現在の妙円寺の方角をみつめておられます。
地図
まとめ
廃仏毀釈を責めても悔いても、現在を変えることはできません。時流により定着してしまったものは致し方ないところもあります。ただ、義弘公が菩提寺として定め、そののち、妙円寺詣りという 習わし が生まれた流れを考慮すると、徳重神社へのお詣りと並行し”妙円寺へお詣り”をすることを周知するのは、とても大事なことなのでは??と勝手に思っています。
いずれにしても、義弘公やその主従の方々への想いは変わりません。ただただ当時をしのぶばかりなのです。
※より深い妙円寺の歴史については法智山妙円寺のホームページをご覧ください。
それではまた(o・・o)/~