シリーズ鹿児島の銅像を巡る~vol.11~

今回は、斉彬公の活躍や西郷隆盛との対立から、物語の中ではスポットの当たり方があまりよろしくない、島津久光公の銅像にお伺いしました。

島津久光公とは

誕生

1817年10月24日 第10代薩摩藩藩主 島津斉興公の5男として生誕。母はお由羅の方であり、斉興公の寵愛を受けた側室です。

重富家へ

1825年に、重富家の千百子と婚約し、重富家の養子となり1828年に元服。「忠教」と名乗ります。その後、1839年には重富家の家督を相続。

お由羅騒動(高崎崩れ)の勃発

斉興公の後継は、通常であれば斉彬公が筋ですが、蘭学に傾倒する斉彬公を、斉興公や調所広郷は再び薩摩藩の財政を悪化させるのでは。。と、危惧しておりました。そこで、国学に明るく、寵愛していたお由羅の方との子である久光公を後継にしようという流れが出てきます。

一方、この流れをよしとしない、斉彬派の家臣 近藤隆左衛門、高崎五郎右衛門らは、強硬策で家督を斉彬公に譲るように画策しますが事前に発覚。斉興公による斉彬派粛清の嵐が薩摩藩に吹き荒れました。

最終的に、江戸幕府 老中 阿部正弘の仲介により斉興公は隠居。1851年に斉彬公が家督を継ぐ形で落ち着きます。なお、斉彬公と久光公個人が仲たがいしているという事はなく、互いに周囲の思想に翻弄された出来事だったのでは感じます。

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後見人(国父)として藩を支える

1858年、斉彬公の遺言により久光公の息子である忠義(茂久)公が薩摩藩主として家督を相続します。斉興公没後は、久光公が後見人となり小松帯刀や、大久保利通ら中下級藩士で構成される有志グループ「精忠組」を重用し藩政を動かしていきました。西郷隆盛に関しては、意見の相違が目立ち、やがて対立が表面化。西郷の無断上坂をきっかけに、西郷は流刑の憂き目にあいます。こういった点が、西郷隆盛視点の物語で久光公の評価を落としている原因ですね。

寺田屋事件

1862年、久光公は公武合体を推進させるために兵をひきいて上洛。この時、倒幕の意志を示さない久光公に対し、有馬新七ら尊攘派が関白や京都所司代を襲撃し、力づくで尊王攘夷を行おうと画策。これを知った久光公は、家臣を派遣し説得を試みるも失敗。結果、寺田屋に集結した有馬新七らは上意討ちとなり粛清されます。

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生麦事件と薩英戦争

寺田屋事件後、朝廷から幕政改革を要求する勅使が江戸へ派遣されるのに伴い、久光公は勅使随従を命ぜられます。そして江戸からの帰路、生麦村で久光公の行列を遮ったイギリス人を殺傷する事件が起こります。これが生麦事件であり、その後の薩英戦争に繋がるのです。

なお、生麦事件と薩英戦争に関しては、現地レポートも含めて下記で詳細に説明しています。

参預会議と四侯会議

1863年、孝明天皇からの上洛要請後、公武合体論を具現化した参預会議に参加しますが、一橋慶喜と激しく対立。参預会議は事実上崩壊します。こののち久光公は薩摩に戻り、西郷や大久保が各方面で奔走する形になるのです。

その後の1867年。伊達宗城、松平春嶽、山内容堂らと共に四侯会議に参加。しかし、ここでも将軍となった一橋(徳川)慶喜と禁門の変以後の長州の処分などを巡り、意見は対立。ここに久光公の意向は討幕へと傾いていきます。

病身のため帰国

倒幕路線が明確になりましたが病身だった久光公は、大坂をへて鹿児島に帰国。残った西郷、大久保らに後事を任せます。

1867年10月孝明天皇より討幕の密勅が下され、幕府側は大政奉還。天皇から上洛を促されますが、病身を理由に息子である藩主 茂久(忠義)公が代わりに上洛。戊辰戦争へと局面は流れていくのです。

明治新政府との軋轢

明治の世になると新政府の急進的改革路線を批判します。久光公からすれば、武家社会の終了は到底容認できるものではなかったようで、幕府制度を継続し、島津家による新しい幕藩体制を希望していたとも言われています。

さらに明治4年には、西郷、大久保ら主導による廃藩置県が行われると、これに大激怒し、抗議の意を込めて、自宅の庭で一晩中、花火を打ち上げたと言われています。

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維新の功労者としての側面と、保守思考保持者としての側面

その後も政府の方針に対しての意見書を明治天皇へ奉呈するなど、新政府への不満、旧体制への依存思考が続き、廃刀令後も徹底的に反発、髷を切らず、帯刀、和装を変えることはなかった久光公。

こういった新政府への反発に明治政府は苦慮し、叙位や叙勲により、立場を尊重している姿勢をみせつつ、意見は適度に流すという姿勢で対応。結果、維新の功労者としての存在は認められつつも、久光公の旧時代への回帰、新時代にそぐわない思想は排除される形となってしまいました。

のちの隠居生活では、島津家に伝わる史料の編纂、著作を行い、1887年(明治20年)12月6日に71年にわたる波乱の生涯を閉じます。

なお、葬儀は鹿児島で最初で最後の国葬となり、福昌寺跡の島津家墓地に眠られています。

ちなみに、今上天皇陛下の母君である香淳皇后陛下は久光公のひ孫にあたりますので、久光公は今上天皇陛下の高祖父にあたるのです。

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島津久光公の像

久光公の像は、忠義公の像と共に照国神社のすぐそばの探勝園と呼ばれる場所にあります。

探勝園とは?

かつての二の丸庭園であり、島津家第25代当主 重豪公の時代に千秋園として造られた庭園であり、27代当主斉興公の治世でさらに手を加えられ探勝園と名づけられました。ただ、現在は日本庭園のような造りではなく、街中にある静かな公園と言った印象です。

まとめ

像のある探勝園は、裏通りに面する立地となり、近くにある中央公園と比べて非常に人が少ないです。ただ、写真で見てもらえばわかる通り、自然に囲まれ落ち着いた雰囲気のある公園となっています。

家督騒動、名君とされた兄から受け継がれた重責、さらには英国との戦争に時代を大転換させた明治維新。そんな中で、自己主張はするものの暴発はせず、西南戦争にも加担しなかった姿勢は評価するべき点も多いと思います。

混沌とした時代の中で、優秀な家臣たちを上手く活用し、時代を変えた手腕は見事であり、維新の功労者である事には間違いありません。

 

島津に暗君なし

 

そんな想いを持ちながら過ごす時間があっても良いかもしれませんね。

アクセス情報

住所:

地図

 

それではまた(o・・o)/~

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