いつも鹿児島の良い場所、良いものなどをご紹介していますが、今回は番外編で幕末の薩摩に影響を与えた場所を訪ねてみました。

生麦事件とは?

生麦事件は、1862年9月14日イギリス商人リチャードソンとその縁者(女性一人を含む)四人が、旧東海道生麦村付近で島津久光公(29代島津忠義岳父)の行列を妨げてしまったことにより発生した事件です。

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当時の記録

複数の歴史書や記録で確認すると、この事件は以下のように、さまざまな不幸が重なっています。
・リチャードソン一行は一般の商人だったため、通訳などおらず言葉が通じなかった。
・日本における大名の存在が貴族的地位であることは多少の理解があったが、それに対する礼儀を知らなかった。さらに、治外法権により付近は乗馬が許されていたので、馬を下りるということはなかった。
・大名行列のわきを通れば問題ないと判断した。
・わきを通ろうとしたが、道幅が狭く結果、列を突破するような形になってしまった。
・駕龍廻りの薩摩藩士が、下馬もしくは引き返すように怒声をあげ手を振ってきたため、さすがにまずいと感じたか、下馬せず引き返そうと馬の鼻先を返したが、リチャードソンの馬がいうことをきかず、列をさらに乱してしまった。

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切りつけ

これにより薩摩藩士 奈良原喜左衛門(親族談では弟の繁という説もある)がリチャードソンの脇腹へ初太刀を浴びせかけ、返す刀で左肩から切り下げた。また、女性は帽子をはねられ前髪を切られたが身体に太刀は浴びせなかったという。(この辺は武士道。瞬時の判断と剣術の凄みを感じる)

他、男性二人も切りつけられたが、必死の逃亡の末、本覚寺にあったアメリカ公使館に逃げおおせ、女性は横浜まで逃げ延びたという。なお、薩摩藩士も深追いはしなかった。

最初に切り付けられたリチャードソンの傷は深かったようで、数百メートル逃げたのち力尽き落馬。そこを海江田信義が「助からないだろう」と判断し、介錯したといわれている。

他の外国人商人の見解

ちなみに事件が起こる直前、島津の行列に遭遇したアメリカ人商人のユージン・ヴァン・リードは、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて行列を乱さないように道を譲り、脱帽して行列に礼を示しており、薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示していると了解し、特に問題も起こらなかったという話があります。

このヴァン・リードは日本文化を熟知しており、大名行列を乱す行為がいかに無礼なことであるか、礼を失すればどういうことになるかを理解しており、「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である」とイギリス人4名を非難する意見を述べていたという。

これは、今も昔も同じで育った文化が違う異国に行くなら、その地の風習文化を事前に学び、尊重することをしないといけないという戒めにも繋がります。「郷に入っては郷に従え」「土地の水に慣れろ」昔の人はよく言ったものです。

非常に悲しい事件ではありますが、これをきっかけに薩英戦争が起き、イギリス艦隊による砲撃で鹿児島は戦火に包まれます。

薩英戦争の勃発と薩摩の気骨

薩英戦争では、英軍側のほうが戦死者、負傷者を多く出し、旗艦は大破。旗艦艦長も死亡しています。

薩摩藩側は物的被害が大きく、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、民間船5隻が焼失。
これだけ多くの人家が焼失したにもかかわらず、薩摩藩の人的被害が少なかったのは、薩摩藩が攻撃を開始する前に避難を命じていたという裏があるようです。斉彬公により他藩に比べ近代武装化ができていたのと、戦国時代勇猛をはせた島津家武門の意地。受け継がれた精神は西洋一国を相手にしようと変わりません。ナメてきたらやってやる!という気骨を感じます。

逆にイギリスは生麦事件の件で、幕府から賠償金を得られたため、それに属する薩摩藩も艦隊を送り、脅せば落ちると思っていたと言われています。その認識の甘さが薩摩藩側砲台の射程距離に旗艦を入れてしまうという失態になったのではないでしょうか。

結果として、薩摩藩側が賠償金を支払い和解となったため、負けたような認識を与えられる薩英戦争ですが、世界最強といわれたイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ、途中撤退したという事実に西洋は驚き、当時のニューヨーク・タイムズ紙は「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」とし、さらに、「西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう」とも評したとのこと。

幕府は弱腰。だが薩摩は侮れない。こういった認識は強くなったといいます。

それが、イギリスと薩摩の関係を深くし、攘夷から開国へ舵を切りるきっかけとなり、さらなる薩摩の近代化、日本の近代化につながっていくのです。

薩英戦争の砲台跡

薩英戦争砲台跡:今も残る戦争の跡は都市景観に

台場公園:当時の原型をはっきり残す薩英戦争砲台跡 @南大隅

五代友厚の人生にも影響した生麦事件と薩英戦争

余談ですが、五代友厚は薩英戦争時、イギリス側の捕虜となりこれがきっかけで西洋との関係を深くし、のちに薩摩英国留学生にもつながっていきます。

幕末、歴史のターニングポイント。そのひとつが生麦事件ということになりますね。

生麦事件の現場

神奈川県横浜市鶴見区生麦。生麦駅から徒歩10分圏内に歴史を揺るがした事件の現場はあります。生麦小学校近くにあるのですが、驚いたことに一般の民家が建っており、そこに案内があるだけでした。

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この家のある場所は、当時、お店の前で事件を目撃した「豆腐屋勘左衛門」宅だったようです。
そこから横浜方面に数百メートル。リチャードソンが絶命した場所に、事件を風化させてはならないと明治16年に建てられた生麦事件の碑があります。

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生麦事件の碑

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現在は、道路工事により仮移設されており、実際の現場ははっきりとわかりませんでした。歴史的現場は民家に。碑は現場になく仮移設。現代の生活や経済が優先される土地事情。そういった意味で史跡が現地にそのまま残っているというのは、如何に貴重な事なのかと考えさせられました。

今回の写真
・現在の現場付近、生麦事件の碑、事件直後のリチャードソン絶命場所。閉館した生麦事件参考館※電話で予約すれば対応してくれると案内にはあるが、電話番号が使われていない。
・事件発生時の模式図は「隣の夫婦のブログ」様よりお借りしました。
URL:http://blogs.yahoo.co.jp/aki12mari

生麦事件参考動画

若干微妙な部分はありますが、状況がわかりやすい動画⇩

 

高齢者・障害者向け環境情報

京浜急行電鉄生麦駅より徒歩10分圏内に生麦事件現場、生麦事件記念碑がある。坂道などはないが路肩を通るため、車に注意が必要。旧東海道はそこまで車の通りは多くない。

 

それではまた(o・・o)/~

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