シリーズ鹿児島の銅像を巡る~vol.3~
鹿児島中央駅より徒歩5分ほどで訪ねることができる大久保利通像。
西郷隆盛像とは違い、没後100年という2倍の月日を経て、昭和54年中村晋也氏により制作された。
やはり、そこは県民感情なのだろうか。。
西郷さんが地元の民衆に寄り添った英雄であり、大久保卿はその盟友でありながら、最後に西郷さんを倒したという印象が、なによりも先行してしまったように感じる。
大久保利通の歴史
生誕
文政13年(1830年)鹿児島城下の高麗町にて、薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳(剛胆な人物として知られる)のニ女・福の長男として生まれる。幼少期に加治屋町に移住し、下加治屋町の郷中や藩校である造士館で、のちに同志となる西郷隆盛らと共に学問を学ぶ。武術は得意ではなかったが、討論や読書などの学問は特に抜きんでていたという。
生誕の地
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育った場所
お由羅騒動と苦難の時代
弘化3年(1846年)藩の記録所書役助として出仕。その4年後の嘉永3年(1850年)お由羅騒動が起き、父である利世は島流し。大久保本人も謹慎処分となる。これ以後、大久保家は貧しい生活を強いられる。のちに島津斉彬公が藩主となると謹慎を解かれ、嘉永6年(1853年)に記録所に復職。御蔵役となる。
久光公からの信頼
安政4年(1857年)西郷とともに徒目付となり、精忠組の中心核として活動。斉彬公の死後は、失脚した西郷に代わり、国父 忠教公(後の久光公)に税所篤の助力で接近。碁を通じて懇意になり、とんとん拍子で出世し、御側役の任につき、久光公から一蔵の名を賜り通称を改めるまでとなる。
生麦事件と薩英戦争
久光公は公武合体を推し進め、朝廷に働きかけ幕府に改革を迫る。この影には必ず大久保利通の姿があった。そんな折、生麦事件を発端とした薩英戦争が1863年に勃発。鹿児島の城下は戦乱で焼失。この時、大久保をはじめ多くの薩摩藩士は西洋の力を痛感する。
のちの第二次長州征伐では薩摩藩の出兵拒否を仕切り、その後、政治の合議化を図るため、島津久光、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城らによる四侯会議を企画するが、徳川慶喜との意見対立により早々に瓦解。
倒幕と明治新政府樹立
これにより久光公も倒幕に傾く。この機に大久保利通は長州藩と広島藩に働きかけ三藩盟約を結ぶ。続いて、朝廷にも働きかけ、倒幕の密勅詔書を引き出す。こののちの1868年。岩倉具視と共に王政復古の大号令を発布。明治政府の樹立に多大な貢献をし、大久保利通は新政府の参与となる。
明治政府重鎮として
明治2年7月22日(1869年)参議に就任。大名の領地を天皇や領民へ返還する版籍奉還。藩を廃止し、中央政権下の府や県を置く、廃藩置県など明治政府の中央集権体制づくりに奔走。
明治4年(1871年)大蔵卿に就任。岩倉使節団の副使として欧州を外遊。外遊中、朝鮮出兵を巡る征韓論が起き、西郷隆盛や板垣退助と対立。これがきっかけとなり、明治6年西郷らは失脚する。
明治6年(1873年)内務省を設置。参議を兼任し初代内務卿となる。「富国強兵」を強く押し出し、殖産興業政策や学制、地租改正や徴兵令を実施。
明治7年(1874年)佐賀の乱が勃発したが、これをただちに鎮圧。
明治10年(1877年)西南戦争が起きる。この時大久保はで京都で政府軍を指揮。同年、第1回内国勧業博覧会を開催。
紀尾井坂の変と最期
明治11年(1878年)5月14日。石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、杉村文一、脇田巧一。島根県士族・浅井寿篤により紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて殺害される。享年49歳。
当日、午前8時頃に、麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発し、明治天皇に謁見するため、馬車で赤坂仮皇居へ向かっている最中の出来事だった。
現在の紀尾井坂
東京メトロ半蔵門線「赤坂見附」駅から北へ徒歩10分ほどのところにある紀尾井坂に大久保卿終焉の地はある。
周囲は広場となっており車いすでも入れるようにスロープも完備。トイレも多機能トイレとなっている。
ここで襲われたのか。。。なんともいえぬ心苦しさがある。。
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大久保利通墓所
青山霊園にある大久保利通のお墓。ようやくお参りする事が出来た。
そばの灯籠には川路大警視の名が刻まれている。
また、この付近は大久保利通の奥方のお墓、その他、大久保家の方々のお墓があり、大久保利通への碑も建てられている。
墓所の前では自然と、ひざまずいてお参り。。鹿児島から来た旨。その他もろもろ。。感謝と共に。。
地図は後日
大久保利通の人物像
大久保卿の政策の最優先は常に国益だったと言われている。その為、情に流されず、果断な選択も常だったというし、地元の利益より国益優先だったため、期待した人々には裏切りに感じられたというところも大きいかもしれない。
大久保卿暗殺の犯行声明として、公費で私腹を肥やしたなどの記述があったというが、その実は私財を投げ打ち、公共事業を推し進めてた。
また、西郷さんの死後も常に西郷さんからの手紙を持ち歩き、最後のその時も懐に手紙を携えていたという。
故郷からは敵としてみなされ、最後は非業の死を遂げ、それでもなお大久保卿は鹿児島に戻ることができず、現在に至る。
明治維新後の混乱から近代日本の礎を築いた英雄の没後としてはあまりに悲しい。
建立された銅像が大久保卿の育った加治屋町を見守り、桜島を眺めるように建ったのがせめてもの救いか。。
いつか岡山の五流尊龍院に保管されている大久保卿暗殺時に使われた馬車も訪ねたいと思う。
大久保卿もまた近代日本の礎を築いた郷土の英雄なのだから。
住所