【指宿】正龍寺跡:“薩摩文教の府”と呼ばれた港町山川の古刹跡へ

指宿市山川。古くから港町として栄えた土地。

ここには“薩摩文教の府”と呼ばれたお寺「正龍寺」がかつてあったとのことで、その地を訪ねてみました。

アクセス

海沿いの国道269号を山川方面に進み、道の駅山川より手前にあるガソリンスタンドを右へ。その後、二本目の筋を右に曲がると行きやすいです。Google Mapでは申請中ですので、同位置にある河野覚兵衛の墓の地図をご案内しておきます。

地図

正龍寺とは?

現地案内より

市指定文化財旧正龍寺跡墓石群(指定:昭和56年10月6日) この正龍寺は、薩洲山川海雲山正龍寺といい、山元氏が創建したといわれている。開基の年代は、不明である。明徳元年(一三九〇)、名僧・虎森和尚がまねかれて再建にあたった。その後、多くの名僧を出し、京都の儒家藤原惺窩をも驚かす学問的水準の高さを誇り、薩摩文教の府とさえいわれた。また、貿易港・山川港に入る外国船の外交文書の授受にもあたっていた。そのために豊臣秀吉の検地による知行の没収をもまぬがれている。しかし、明治二年の廃仏毀釈により、廃寺となった。ここの墓石群は、その時に散逸したものを集めたものである。                                   平成15年2月1日指宿市教育委員会

現場レポート

まず、到着すると山川石で造られた立派なお墓の数に驚かされます。またそれと同時に、その多くが自然に包まれつつあることにも。。※多くの墓石が草木に覆われています。。

中に進んでいき、河野覚兵衛のお墓や旧正龍寺跡墓石群を目指します。

山川石とは?

山川の福元付近でしか採れない淡黄色の石で、俣川洲付近にあったといわれる火口から噴出した溶結凝灰岩です。加工のしやすさと相反し、風化に強いことから島津本家の墓石や宝篋印塔に多く使われています。

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※島津家の墓石に関する論文

http://www.jomon-no-mori.jp/jimages/mbn_kiyo/kiyo2/kiyo2_matuda.pdf

河野覚兵衛の墓とその功績

指宿の豪商 濱崎太平次に対し、山川の豪商といえば河野覚兵衛。西郷隆盛が奄美大島に流罪となった際は、この河野家の船で渡ったといわれています。

もの凄く立派な墓石が並びます。。彫刻も珍しいものが多いです。

市指定文化財ですが周囲の環境は厳しいものとなりつつあります。。

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正龍寺跡墓石群

河野覚兵衛のお墓の先に正龍寺跡墓石群があります。三国名勝図会の図もありました。残念ながらその面影を感じることはあまりできません。。

他の寺跡同様に、相当厳しい状態だったところから、発掘整備されたようです。。

とにかく立派な五輪塔や祠があります。

賛否両論あるかと思いますが、周囲の状況や整備負担を考えるとコンクリートで土台を固めたのは正解なのかもしれません。

破壊をまぬがれた見事な石仏です

こちらは首だけ。。

西南戦争ゆかりのお墓もあります。

まとめ

山川石を使った立派な墓石や仏様が多いので、そういったものに興味がある人にとっては、お参りしがいのある場所です。

正龍寺跡墓石群からは、山川の湾になった海がみえます。かつての正龍寺はきっと港からもよく見えたことでしょう。今はとにかく静かな人気のない場所ですが、多くの歴史的文化財がある場所でもあります。

山川方面に行かれる際にはお立ち寄りになっては如何でしょうか(*^-^*)

 

それではまた(o・・o)/~

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