平田靱負像と薩摩義士の墓:宝暦治水事件とそのゆかりの地を訪ねて~鹿児島編~

歴史や道徳の授業で学んだ宝暦治水事件

遠く、縁もゆかりもなかった土地の大河川(木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川))

幕府管理下の過酷な環境で、多くの犠牲を出したこの事件の現場とゆかりの地を、先日訪ねてきました。

 

それに関連し、今回は鹿児島にある平田靱負&薩摩義士ゆかりの地をご案内します。

宝暦治水事件とは?

宝暦治水とは、宝暦4年(1754年2月)から宝暦5年(1755年5月)の一年三か月の間、幕府の命令により薩摩藩が行った治水工事です。工事現場は美濃(岐阜県)を中心とした濃尾平野。当時、濃尾平野に広がっていた木曽川、長良川、揖斐川は三つの川が複雑に合流、分流し、下流の川底が高かったことも重なり、洪水が多い土地でした。

 

また、該当地域は複数の小領主が統治する領地を川が流れており、治水工事の一元化が難しく、徳川御三家のひとつ尾張藩側だけ堤の整備が行き届いていました(お囲堤)。これによりその対岸の水害はより一層ひどくなり、慶長14年から宝暦3年までの144年間で112回の洪水が起きました。

幕命「お手伝普請」

その対策として、幕府は外様大名でありながら全国2位の石高77万石を誇る薩摩藩へ「お手伝普請」を命じます。お手伝普請とは、幕府が事業計画や工事監督をし、それに必要なお金や人員は命じられた大名が出すというものです。

 

遠く縁もゆかりもない土地へのお手伝普請の命により、これに従うか?一戦交えるか?藩内は紛糾し、その意見は一戦の声が大きかったと言います。それに対し、時の勘定方家老「平田靱負」は、戦にされば民百姓が一番犠牲になり、また美濃の地で苦しむ民百姓を救うために水と戦うことこそ島津家の安泰につながると説得。これにより藩の方針が幕府の命に従う流れに動き、947名の薩摩藩士が美濃へ旅立つのです。

過酷な環境

早朝から夜中まで連日連夜続く工事。食事は一汁一菜、風呂もなしという状況。そんな薩摩藩士に対して幕府は追い打ちをかけるかのように現地の村々に「馳走がましき物はだすな」「草履、みのなど安く売るな」「宿舎は塀など壊れても修理するな」「差し入れはするな」「幕府の悪口など聞いたら伝えろ」といった内容が書かれた高札を立てたと言います。

犠牲者

こういった過酷な環境に加え、せっかく整えた堤を幕府側に破壊されたり、作り直しを命じられたりする。あまりの仕打ちについにそれに抗議を示す意味で、自害する藩士が現れだしました。しかし、それは幕府への反逆ととらえられる行動。彼らの死の抗議は病死として届けられます。また、葬儀についても日中は許されず、夜間にお寺を巡るのですが、多くのお寺で断られたと言います。幕府に事情が漏れたら寺院側も睨まれると考えての事でしょう。結果、その多くは海蔵寺住職の十二世雲峰珍龍和尚が「死者を弔うのは僧侶のつとめ」と引き受け、弔ったのでした。

 

また、粗末な環境と栄養不足、さらには赤痢なども流行り、苦しんだ人も多かったと言います。

 

なお、この工事の犠牲者は、切腹自害51名、病死33名。幕府側にも抗議による2名の犠牲者。さらに人柱となった方も1名いました。

※近年の研究によると切腹自害者は少なく、ほとんどが病死、さらに人柱も存在しなかったと言われています。

工事終了と平田靱負の最期

このような状況下、資金繰りで大坂などを奔走し、現場の士気をまとめた平田靱負。そして現場でひたすら耐え忍んだ薩摩藩士たち。宝暦5年5月23日幕府の工事検分がすべて終了し、ここに治水工事は完了となります。

 

国家老へ工事完了の書面をしたためたあと、平田靱負は多額の負債と多くの人命を奪ってしまった責を負い自害。なお、近年の研究では明治以前の記録に平田靱負が自害したとの記録はなく、同時期に病を患っており、それにより死去したとの説が有力だそうです。

 

ただ、いずれにしても多くの心労を抱え、その責任を全うした宝暦治水の中心人物であり、江戸中後期における薩摩の難局を背負い乗り切った偉人といえるのではないでしょうか。

宝暦治水が薩摩に残した影響

この工事により抱えた莫大な借金は、薩摩藩領内の税収から返納されることとなり、貿易による利益の高さもあいまって、奄美諸島ではサトウキビ栽培が強く奨励され、厳しい取り立てが行われたと言います。

 

また、当時の藩公重年公は工事完了後の宝暦5年6月に死去。その跡を継いだ島津重豪公は、かのシーボルトに開明的で聡明な君主と称えられましたが、「蘭癖大名」と言われるほどヨーロッパの習俗や品に興味を示し、藩内改革のためとはいえ出費が多かったといいます。結果、造士館、医学院、演武館、明時館(天文館)などが整備されましたが、財政はさらにひっ迫。

 

これにより調所広郷の財政改革が始まるのです。

宝暦治水の現場と薩摩義士の墓参

以下の記事は実際に宝暦治水の現場に足を運んだ記事です

宝暦治水 鹿児島ゆかりの地レポート

まず訪れたのは黎明館近くにある薩摩義士碑。城山に向かうルートにあるため見かけることは多いと思います。

薩摩義士碑

大正9年に建立

薩摩義士がクローズアップされたのは、やはり明治以降。幕府の目があったためでしょう。

地図

平田靱負屋敷跡

薩摩義士碑から1.5kmほど離れた平田公園。ここは平田靱負の屋敷があったところです。

平日だったからでしょうか。とても静かな公園です。どれだけこの地に戻りたかったことでしょう。。

平田靱負の像

公園奥に平田靱負の像があります。

像の土台裏手には薩摩義士の名が

地図

薩摩義士の墓(曹洞宗大中寺)

大中寺は南林寺が廃仏毀釈によりなくなったあと、その流れをくむ形で建立されたお寺です。実はこちらに薩摩義士のお墓があります。

お墓ができた経緯としては、昭和34年に岐阜県養老町にあった天照寺の薩摩義士の墓が水害により埋没。その後、災害復旧の折、遺骨が発掘されたため、その遺骨を分骨し鹿児島で供養していたそうです。そして薩摩義士240年祭を機に、薩摩義士や杜氏の藩士の遺徳を顕彰、供養するために平成6年こちらにお墓が建てられました。

 

おそらく南林寺時代の住職の墓石

石仏が並びます

そして薩摩義士のお墓

地図

まとめ

仮に平田靱負がおらず幕府と合戦になっていたら現代はどうなっていたのでしょう?歴史のifは、いろんなところにあり、考えたらきりがありませんが、宝暦治水も現代に生きる私たちの存在や生活に直結する大事件であったのは確かかもしれません。

 

今回ご紹介した3か所は、ほぼ徒歩で巡れます。先人たちへの慰労を込めて巡ってみては如何でしょうか。

補足

メッセージにて、当記事に関連した(ひょっとしたら当記事も含む?)記事「薩摩義士墓所と治水神社など:宝暦治水事件とそのゆかりの地を訪ねて~岐阜・三重編~」が『近年、宝暦治水事件の真相について研究されている郷土史家の方から、Twitterで「どうしようもない内容で公害だ!」と、言われている。削除したほうがよいのでは?』と、ご連絡を頂きました。ご心配をして下さりありがとうございます。

 

せっかく頂いたご連絡ですが、当記事ならびに平田靱負像の記事は削除するつもりはございません。その郷土史家の方が、多くの資料、史跡を研究し、宝暦治水事件の見直しを図っている努力は素晴らしいと思います。※当記事も内容に一部補足を入れました。

 

私は、宝暦治水の本当の真実を知りません。なぜなら当時の現場をみていないからです。現場をリアルで見ていない以上、真実は記録を頼るしかありません。さらに記録というものは、歴史において強者の記録となり、組織や個人の主観、意向が働くものです。ですので、現時点で伝えられているすべての歴史は、常に真実なのかはわからないもの。なので、多くの史料から多角的、多面的に研究がされていくのでしょう。

 

ただ、世間一般での認識と、まがりなりにも研究の最前線にいるプロとして活動されている方との認識が違うのは当然ではないでしょうか?プロがいろんな立証と訴求を繰り返すことで、1192年の鎌倉幕府成立が1185年になったり、足利尊氏の肖像画が騎馬武者になったりと、教科書レベル、世間の認識を変えるレベルで歴史認識は変わっています。現時点で、パンフレットや掲示物記載の伝を伝えるのが問題ならば、まずはそちらをどうにかすべきです。

 

その方は、史実とは違う過剰な美談になっている!と、宝暦治水に関して自己の研究認識と違う記事をtwitter上で指摘?されるスタイルのようです。真実を研究することは素晴らしいと思いますが、当記事に込めた私の真実は「当地で多くの薩摩の先人たちが命を落とした事実」に対する慰霊なのです。

 

その慰霊に至る経緯として、現在、最も伝わっている歴史を紹介することは不自然なことではありません。亡くなり方が違う!経緯が違う!ということは大切な論点なのでしょうが、「郷土の先人が縁もゆかりもない土地で亡くなったこと」に対して、慰霊したことを『公害』などといわれるいわれはありません。おそらく今後、宝暦治水の話を聞くたびに、このような言動を受けたことを思い出し不快な気持ちになるでしょう。それが顕彰活動たるものなのでしょうか?

 

しかしながら、ご発言頂いた郷土史家の方の歴史研究が、歴史認識の主軸になれば当記事の内容も変わります。

と、いうことで、せっかくなので当サイトも協力させて頂き、諸々リンクを貼らせていただきます。最新の研究動向にも期待しています。

Twitter

当記事へのご意見

著書

宝暦治水史跡保存会

 

あとこちらの本がおすすめのようです

再補足

その後、郷土史家の方との直接的なやりとりで、以下の資料が史実を知るうえで重要とご推挙いただけました。

宝暦治水工事と〈聖地〉の誕生 羽賀祥二名古屋大学教授

木曽三川流域治水史をめぐる諸問題 秋山晶則岐阜聖徳学園大学教授

・黎明館の内倉昭文学芸部長の寄稿⇒これの詳細がわからなかったのですが、上記二名の先生たちと共に名を連ねていた資料がこちら

 

公害という発言の意図としては、やりとりから以下のような見解ととらえました。

歴史を紹介するには医療と同じように情報の責任がついてまわる!ってところでしょうか(;・∀・)

 

いやいや、いい勉強になりました。ただ、直情的だったり、建設的に理解できなかったりする人には、趣旨を汲み取れない言い方だけは、もったいないと思うんですよねぇ・・

 

本件だけでなく、過去に何度も同じことがあったりしたようで、お怒りはごもっともだとは思いますが、歴史に背景があるように、人にも背景がありますので、すべてを同一視し、ぶん殴るのは違うと思うんですよ。。

 

自分がどうとかじゃないんですが、おそらく今までの同様のやりとりは、言い合いになって喧嘩別れで終了したと思うんです。それが宝暦治水という歴史にいい影響を与えるのか?と

 

知ろうとしない無作為の暴力というのは歴史に対しても人に対しても同じこと

 

2025年までにこの宝暦治水の偽史問題にはケリをつけられるという強い想いをお持ちなので、苛烈になることもあるでしょうが、知見をぶつけるのではなく、教え諭しながら広く伝えていただきたいと切に願います。

 

私も精一杯、先方の言い分を理解しようと考え、Twitterで呟いた見解にいたりましたが、それでも腑に落ちることはありません。個人主観でいきなりぶん殴られるほうはたまらないです。

 

なお、私としては歴史研究がどんなに優れていても、人の心を大切にされない方を評価する気にはなれません。ただ、事の正誤については、お読みいただいた方々の私見にお任せしたいと思います。

それではまた(o・・o)/~

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