シリーズ鹿児島の銅像を巡る~vol.12~
先日、東京出張の折、青山霊園にある松方正義のお墓に墓参する事が出来ました。そこで今回は、鹿児島市にある松方正義像や生誕の地と共にに松方正義という偉人について御紹介したいと思います。
松方正義とは?
写真を少しカラー化して、現実感を出してみます。
誕生
天保6年(1835年)に薩摩藩士 松方正恭の四男として鹿児島城下の荒田村に生まれます。その生活は順風満帆ではなく、正義10歳の時、家の財政は破綻状態となり11歳で母を13歳で父を相次いで失い、貧しい生活の中、藩校である造士館に通い、示現流の剣術を究め、文武精励に励みます。
出世
嘉永3年(1850年)には、御勘定所出物問合方勤務(藩の財政をつかさどる役所のような部署)、座書役を務め、その働きが認められ藩主島津忠義公から130両を拝領。
生麦事件
文久2年(1862年)幕末をゆるがす大事件「生麦事件」が発生。この時、松方は、島津久光公の籠を護る任に就いており、同じく任に就いていた奈良原繁らが、英国人に向かっていく中、一人、主君久光公の傍につき、周囲に眼を光らせ、久光公を護る仕事に徹したと言います、これにより久光公の信任を得た松方は、より藩に重用されるのです。
戊辰戦争から明治維新
戊辰戦争では長崎市中の治安維持に努め、貿易の安定を図り、明治維新後は、現在の大分県全域および福岡県東部に位置した日田県の県知事に就任。別府港の築港および現在に至る別府温泉発展の基礎を作ります。こういった知事時代の功績により、大久保利通の評価を得て民部大丞、租税頭と昇進。
日本銀行設立
明治10年(1877年)にヨーロッパに渡り、学んだことを元に明治14年(1881年)に「日本帝国中央銀行」説立案を提出し、日本の中央銀行となる日本銀行を創設。
大蔵大臣・内閣総理大臣
内閣制度樹立後は初代大蔵大臣を皮切りに以後、多くの内閣下で入閣。明治24年(1891年)には第一次松方内閣を組閣し、首相と大蔵大臣を兼務。大蔵大臣在任は連続6年半に及びます。
松方デフレ
その後の第二次松方内閣では深刻なデフレを招き、「松方デフレ」と呼ばれ、政権は早期に倒れます。ただ、日本の資本主義社会の形成に必要な多くの政策を打ち出し、国力の充実と財政基盤の安定に大きな役割を果たした点は多くの評価を得ているのです。
死去
大正13年(1924年)呼吸不全により死去(89歳)
松方正義の像と生誕の地
8.6豪雨で流出してしまった武之橋のそばの川沿いに松方正義の像はあります。
2008年に建立されたとのことで知らない人も多いかもしれないですね。。近くに生誕の地の碑もありますので合わせて訪ねてほしいです。
360°写真
松方正義生誕の地
像のある位置からやや南下すると誕生地があります。
現在は小さな公園に
松方正義のお墓
東京メトロ銀座線外苑前駅より歩いて10分かからない位置にある青山霊園。ここに松方正義は眠っています。ただ、外苑前駅からだと青山霊園の奥まで行く事になるので、千代田線の乃木坂駅からの方が若干近い気がします。
青山霊園。。鹿児島にいるとピンとこないかもしれないですが、もの凄く広いです!管理人が4時間半、地図とにらめっこしながら、ひたすら偉人のお墓参りをしてぐらいですので、その広さは半端ない!と御理解下さい。。
なお、松方正義のお墓に関しては以下の地図をご参照ください。※青山霊園の偉人墓所地図は案内所でもらえますが、まずもってわかりづらいです。目的の方がいるなら、しっかり案内所で聞いておいた方が確実と言えます。
17号ロ号1種1側1番。ようやく辿りつきました。。
青山霊園にある偉人の墓石の特徴として、親族により近年、綺麗にされているという点があります。それだけ大事にされているという事ですね。松方正義の墓石も近代的な墓石です。史跡としての認識は捨て、お参りする気持ちをしっかり持って墓参しましょう、
まとめ
日本の資本主義の基盤を作り、日本銀行を設立した松方正義。普通に考えてかなりの偉人なんですが、西郷さんたちの陰にだいぶ隠れていますよね。。明治期の薩摩にはそんな方々がたくさんいるのです!
生誕の地や像の周囲は、ウォーキングやランニングの方も多い甲突川河畔の憩いの地。桜島の眺めもよいのでお散歩がてら是非どうぞ!
それではまた(o・・o)/~