日置市日吉町日置。県道37号線から城の下地区から日新小方面へ曲がった道の先に桂山寺跡がある。
桂山寺の開基は不明だが、日置島津家三代目当主常久公が父忠隣公の菩提寺として一岳等忍和尚が寺を再興させたといわれている。
※関連:日置島津家初代 島津歳久公墓所(大乗寺跡)
現在の桂山寺跡
かつての寺の大半は農地に。なんとものどかな風景が広がる。
近づくと、やや小柄な仁王像が。宝暦6(1756)年造立。(石工 大迫与兵衛、大迫甚七作)
後方にある塔は六地蔵塔ですが、廃仏毀釈と風化の影響で塔に刻まれているお地蔵様の姿はちょっと厳しい事に。。残念
仁王像の間を入り竹林の中へ。右手にはお地蔵様。
島津忠隣公墓所
そして正面には、日置島津家第二代島津忠隣公のお墓が。。お地蔵様もお墓も周囲は荒れてます。。泣
島津忠隣公の歴史
島津忠隣公は、薩州島津家の島津義虎公の次男として生まれ、その後、島津歳久公の養子となった。時は島津家による九州平定間近。ところが豊臣秀吉の九州征伐を受け、戦況は徐々に厳しくなり、日向根白坂の戦いで命を落とすこととなる。
この時、忠隣公は、叔父島津家久公の反対を振り切り夜襲を決行。これを予測していた豊臣軍の逆襲にあい絶命したと言われている。
当時19歳だった忠隣公であるが、長男 常久公がその年の一月に誕生していた為、日置島津家の断絶は免れた。
先に述べた通り、のちにこの常久公が父の供養のために桂山寺を再興するのである。
さて、常久公の存在により、かろうじて命脈を保った日置島津家は幕末、西郷隆盛に大きく影響を与えた「赤山靭負」を生むことになる。
桂山寺跡の一角には赤山靭負の墓所もあるのだが、これに関しては次回記事でご紹介させて頂こうと思う。
歴史とは面白い。戦国期からの紙一重の繋がりが明治維新に繋がる。当たり前のようでそれを知る事は少ない。鎌倉から幕末まで島津家という同一の大名家が一貫して守護を務めた土地。こういった土地は全国的にほぼ例がない。鹿児島の史跡には特にその繋がりの歴史が多数ある。なんとも面白い土地だと深く思うのである。
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地図
※MAPに登録されていなかったのでストリートビューでご紹介
それではまた(o・・o)/~