島津家の中興の祖島津日新公を祖父に持ち、父は薩摩を統一した島津貴久公。
島津義久公の歴史
弟たちは、勇猛、智略、戦術に長けた猛将。一方、義久公はおとなしい存在だったという。それ故、「愚兄賢弟の見本」と若いころは揶揄された。
しかし、そんな義久公を、祖父日新公は、「三州の総大将たるの材徳自ら備わり」と評価している。
生誕
天文2年(1533)伊作亀丸城(※吹上町)にて、貴久公の嫡男として誕生。
※参考:日置市 伊作亀丸城跡 伊作島津氏居城
初陣
天文23年(1554)岩剣城攻めで初陣。以降、国衆を相手にした薩摩統一戦を展開。その過程で、永禄9年1566年貴久公の隠居に伴い第16代島津家当主となる。
関連:姶良市 岩剱神社
三州統一、九州平定へ
その後は、三人の弟たちを最前線におき、国元の薩摩から政務を取り仕切り、三州統一、九州制覇へと動き出す。
島津家の桶狭間と言われた日向の伊東氏との木崎原の戦い。
豊後の大友宗麟による日向南下を耳川の戦い。
肥前の熊、龍造寺隆信と龍造寺四天王を打ち破った沖田畷の戦い。
これらの裏には、弟たちの活躍と国衆の力の結集が必要であり、それを後方から演出した義久公の手腕は、まさしく日新公の評価の正しさを証明している。
豊臣秀吉にる九州征伐
その後、破竹の勢いで勢力を拡大し九州平定目前となったが、豊臣秀吉による惣無事令(大名同士の戦いを禁じる命令)を盾に大友宗麟が、豊臣秀吉に救援を嘆願。
豊臣軍の来襲前に大友家の駆逐を目指すも、大友側の武将 高橋紹雲や立花宗茂の頑強な抵抗にあい苦戦。その間に豊臣秀長率いる毛利・小早川・宇喜多軍など総勢10万余人が豊前に入国。撤退を余儀なくされる。
なお、秀吉による九州征伐というのは大軍を持って島津家を押し込み、降伏へと追いやったように伝えられるが、豊臣軍の四国勢を主体とした先方隊は、島津家久公により、戸次川の戦いで大敗を喫し、長宗我部信親・十河存保などを討ち死にさせている。
だが、衆寡敵せず。最終的には川内の泰平寺で秀吉に謁見し恭順することとなる。
両殿体制
その後は、弟義弘公との「両殿体制」(のちに三殿体制へ)をうまく維持しながら、島津家関ヶ原西軍加担の罪をのらりくらりと回避。島津本軍の温存と、弟義弘公による関ヶ原の鬼神の如き活躍の効果もあり、西軍に加担しながら領地安堵という破格の沙汰を受ける。
この立ち回りが、徳川政権下島津77万石(実際はもっと少なく密貿易などで財政をしのいだといわれる)を作り、幕末の名君を生むのである。
関ヶ原参考動画
最期
慶長16年(1611年)1月21日、国分城にて病死。享年79
島津義久公のお墓
さて、ここからは義久公の墓所についてである。
義久公の墓所は、
島津本家菩提寺であった福昌寺跡。
霧島市国分にある金剛寺跡(金剛寺招魂社)。
同じく霧島市国分にある徳持庵跡の三か所に存在する。
福昌寺跡
鹿児島市の玉龍高校裏手にある福昌寺跡。本当は玉龍高校も含めて福昌寺跡なのですが、島津家の墓所のみ今も残ります。ここには6代師久公から28代斉彬公までの歴代島津本家当主達が眠っています。
福昌寺跡については下記記事をご覧ください(^_^)
金剛寺跡
戊辰戦争や西南戦争、日新日露戦争など鹿児島出身者の戦没者慰霊碑が多数存在する。
元は、慶長9年(1604)、義久公が富隈城から、国分舞鶴城に移った際に建てられた。この時、寺の名称は義久公の号「龍伯」の一字をとり「五峯山龍護院金剛寺」と名付けられた。廃仏毀釈により寺は破壊されたが、明治12年(1879)に招魂社が設立される。
※西南戦争の招魂碑
※戊辰戦争の招魂碑
※日清・日露戦争招魂碑
※歴代住職の墓
※案内
※灯籠なども多いが、その造形も見事。
※入口前の道路や旧境内には風情が残る。
ここの墓では、義久公の歯が祀られているという。
高齢者・障害者向け環境情報
砂利の駐車場あり。トイレはあるもの簡易トイレ。招魂社側には舗装とスロープはあるが、各招魂碑付近は舗装なし。
地図
徳持庵跡
廃仏毀釈で徳持庵が破壊されてしまったため、金襴の袋に納められていた義久の分骨を、明治8年(1875)に新たに埋葬した墓。道路沿いに存在するため、わかりやすいといえるが、逆に遺構としての意識が薄れ、素通りしてしまう人もい多いと思う。
地図
※いずれも地元の方々を中心に綺麗にされています。心から感謝申し上げます。
まとめ
大将として後方で情勢を見定め、九州統一目前まで版図を広げ、外様でありながら関ヶ原以前の77万石を徳川家康に認めさせた力量はもっと評価されるべきだと思います。弟である義弘公に比べ、戦場での華やかな活躍の伝が少ないこともありますが、多くの人に知ってほしい島津の殿様です。
それではまた(o・・o)/~