南さつま市に日本発祥の地と呼ばれるところがあると聞き行ってみました。
笠狭宮跡
概要
南さつま市舞敷野地区。
天孫降臨後、黒瀬海岸より上陸したニニギノミコトが居を構えたという「笠狭宮」があった場所と伝えられる場所がそこにある。※「笠狭宮跡」とされる場所は笠沙宮ノ山遺跡にもある。
到着すると日本発祥の地と記された碑があった。が、これを知る人はどれだけいるのだろう??
旧加世田市教育委員会による説明では以下のようになっている。
”瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、吾田(あた)の長屋の笠狭(かささ) の碕(みさき) [日本書紀] に上陸後、朝日の直刺(たださ)す国,、夕陽の日照(ひて)る国、甚吉(いとよ)き所 [古事記] といって、ここに宮居(みやい)を建てたという。後世、これを笠狭の宮といい、この地を御座屋敷(ござやしき)とよんでいる。前方の竹屋ヶ尾(たけやがお)は、尊(みこと)の后、木花開耶姫(のこはなさくやひめ)が、彦火火出見尊(ひこほほづみのみこと)をお産みになった所といわれている。瓊瓊杵尊は、その後、宮原(みやばる)・川 内(可愛山陵(えのさんりょう))に移ったという。この碑は戦前、鹿児島県が神話ゆかりの地として、ここを指定したとき建てられたものである。”加世田市教育委員会
この場所は「御座屋敷」地区というのだが、そこに戦前の神話顕彰の際、ニニギノミコト宮跡として中央奥の碑を建てたようである。
磐境
なお、左手の森に入るとこの辺りが祭祀場であったとされる磐境(いわさか)の案内が朽ちかけていた。石垣のようなものがあるが、これは磐境(いわさか)ではないだろう。形状や組み方の時代背景が新しいのでは?と感じたためだ。
さらに奥右手に進むと祠と永田林左衛門誕生地なる碑をみつけた。コメントで頂いた情報によると、ここは永田林左衛門という西南戦争にも従軍された方の屋敷の跡地らしい。
全体として”見る場所”というより”感じる場所”であるという印象。
碑までの道は桜などが整備され春には美しい風景になると予測されるが、それ以外の季節は碑文以外に見るという点で物足りないかもしれない。
※この祠は先程御紹介した永田家の氏神様とのことだ。
ただ、碑の西側や裏手がもっている雰囲気、空気感は寺社仏閣がもっているそれと似ているのは間違いない。
やはりなにかしら、古事記や日本書紀に通ずるものがあるのだろう。そう感じずにはいられなかった。
高齢者・障害者向け環境情報
駐車場は笠狭宮跡に続く階段のそばの路肩に停める形になります。そこから段差15cm程、段数23段の手すりなし階段が入口にあり、登っていくと左右に桜の木がある広場へ。その先にまた段差15cm程、段数23段の手すりなし階段があり笠狭宮跡の碑がある。トイレはあるがひどく朽ち果てており実用性は乏しい。