清泉寺跡:聖徳太子が師事した僧が彫った1500年前の磨崖仏がこんなところに!

鹿児島市南部の下福元町。ここに歴史的価値の高い磨崖仏があるとのことで行ってみました。

清泉寺跡

5世紀の百済の僧・日羅上人によって建立されたといわれる清泉寺。※日羅上人は今昔物語などで聖徳太子が師事した高僧と言われています。

 

その存在が明確になるのは室町時代以降。長期にわたり藩主島津氏の庇護を受けますが、残念ながら明治2年の廃仏毀釈により廃寺となります。

県内の他の寺跡同様、現在は多くの県民が関心を向けない場所になってしまっていますが、文化的価値の高いものが今も残る貴重な場所です。

その代表が、寺の本尊である高さ約2.7メートルの阿弥陀磨崖仏です。

阿弥陀磨崖仏

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これは日羅上人の作と伝えられています。廃仏毀釈の影響により顔が削られていますが、仮に上人によるものだとすれば、1500年前に彫られた仏さまを眼前で拝める場所はそうそうないでしょう。

紀年銘のある県下最古の摩崖仏 小阿弥陀磨崖仏

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そのとなりには小阿弥陀磨崖仏。建長3年(1251)と刻まれておりますので、時代としては鎌倉時代のものです。紀年銘のある磨崖仏では県下最古といわれています。

在家菩薩磨崖仏と妙有大姉磨崖仏

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少し離れた場所には、島津日新公を神格したといわれる「在家菩薩磨崖仏」そして日新夫人の妙有大姉を神格化したと思われる「妙有大姉磨崖仏」

宝剣磨崖

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その先には宝剣磨崖もあります。

金剛力士像

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また、川の向かい側には、阿吽の金剛力士像の磨崖仏があるのですが、大変貴重なことに廃仏毀釈の影響を受けず、まったく破損のない状態で現存しています。

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この金剛力士像の間には、「貞享元年申子(1684)四月一五日岩長八兵衛、中村長右衛門」と記されているようで、これは石工の名前といわれているようです。

いずれにしても、長い年月の中でそれぞれの時代時代における磨崖仏がこれだけ集中しているとは物凄いことです。

他史跡

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その他にも、歴代僧侶のお墓や五輪塔、当時の石垣など見るべきものが多いのですが、もうひとつちゃんとお伝えしたいのは「島津大和守久章公」のお墓です。

島津久章公のお墓

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島津久章公とは?

島津大和守久章といい、島津氏分家の一つである新城島津家の初代当主であり、島津本家18代当主島津家久公の娘婿でもありました。

 

寛永16年(1639年)に藩主に就任したばかりの義兄・島津光久公の名代として徳川御三家への使者となりましたがが、帰路、宿泊していた京都から突如失踪し、高野山の島津氏菩提寺「蓮金院」にたどり着いたところを捕縛されて薩摩に護送されます。

 

その後、川辺宝福寺に幽閉されていましが、のちに宝福寺の末寺である清泉寺に移されます。そして、正保5年(1645年)久章は流刑処分と決まり、藩の護送役人が迎えに来たところで乱闘となり久章公以下家臣は全員死亡。久章の遺骸は清泉寺の境内に葬られ、現在も墓石が残っているのです。

 

つまり清泉寺は、薩摩藩内における歴史的事件が起きた場所でもあり、無念の死をとげられた久章公ご本人のお墓がある場所でもあるのです。

 

なお、久章公が京都から失踪した理由は明確ではないですが、なんらかの権力争いがあったというのが有力なのかもしれません。

民から慕われた疱瘡の神「大和さぁ」

久章公は幼少のころ「疱瘡」を患い、その影響で表情は”こわおもて”だったといいます。

 

その為か、久章公のお墓にお参りすると疱瘡が治ったり、軽くなったりすると伝えられ、多くの人がお参りに訪れ、「大和さぁ」もしくは「疱瘡の神様」として慕われたといいます。

 

また、指宿には「大和さぁ」を疱瘡の神様として勧請(来臨を願う)した際に建立した石碑が今も今和泉駅近くの「豊玉姫神社」の社殿裏にあります。

 

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まとめ

現在の清泉寺跡は、前述したように多くの人が訪れる場所ではありません。ただ、地元の人によりお花がたむけられたりしているのをみると少しほっとします。

 

また名前の清泉の名の通り、今も昔もここは水が豊富でこんこんと湧きでており、焼酎の割り水としての人気も高いようです。

 

場所を考えると、昔は眼前に海が広がった風光明媚な場所にあるお寺だったのではないかと想像できます。

そんなことを考えながら、多くの遺構を眺めておりました。

高齢者・障害者向け環境情報

駐車場は坂道を下り、右手の入口段差がおだやかなところ(水汲み場前)のみと考えた方が良いです。スペースが狭いため、出来るだけつめて駐車する必要があります。※他の訪問者の為に(^^)
また、左手のやや段差があるところに広場がありますが、私有地であり駐車は出来ないです。

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清泉寺跡への入口は金網 で閉められていますが、鍵はなく自由に出入りできます。(帰りはちゃんと閉めましょう)道の舗装などはないので車いすは困難です。
また、ぬかるみ・茂み・段差が多く夏場はマムシも多いようですので、寒い時期に訪れたほうがよいと思われます。トイレなどもないため事前に用たしはしてお きましょう。河向かいの金剛力士像は、橋がないため反対側から行くことになります。影原交差点(鹿児島市内方面から)を左に曲がり、車を大観音がある場所 に停め、坂道を徒歩で下ると案内看板がありますのでそこからおります。

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こちらも足元が悪いため十分注意が必要です。※坂道下より撮影

住所

鹿児島県鹿児島市下福元町

地図

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