H28年11月27日。甲突川左岸緑地に70年ぶりに「ある銅像」が建立されました。
なぜ、70年ぶりかというと、この地にかつてあった像は戦時中、軍事資材確保のため、撤去されてしまったのです。それが有志の声や活動により復活したのがH28年11月27日。その銅像こそ乃木希典将軍婦人であった「乃木静子」の像なのです
乃木希典とは?
長州藩士の家に生まれ、文武両道、激動の時代において明治維新後の政府中枢の信頼も厚く、若干22歳で陸軍少佐に就任。
西南戦争では、薩軍に明治天皇より賜った連隊旗を奪われ、自責の念から自刃を図るも味方の説得により失敗。その後の戦闘では、重傷の身でありながらも病院を抜け出し、戦地に向かおうとした逸話も残る。なお、連隊旗を奪われたことを生涯の恥辱としていたといわれている。
明治11年。そんな恥辱を与えた薩摩出身である湯地定之の娘 静子と結婚。
その後、ドイツ留学を経て学んだ軍人教育(軍紀など)確立を経て、明治27年の日清戦争では旅順を一日で攻略。
さらに明治37年の日露戦争でも再び旅順を攻略。ロシアにより頑強に防備された為、共に従軍した長男次男共に戦死。多くの将兵を失いながらも旅順を攻め落とす。
子供を亡くしながらも大国ロシアに打ち勝ち、なおかつ捕虜としたロシア将兵への紳士的な扱いが日本だけでなく世界で称賛され、ヨーロッパ諸国から多くの勲章を授与されたという。
しかしながら、これまでの戦争で多くの将兵を失った責を明治天皇に報告。自刃して償いたい旨を申し出るも、明治天皇により思いとどまるように制止される。
その後、軍事参議官の仕事に就きつつ、学習院院長という立場から昭和天皇の教育役も務めたという。
のちに明治天皇崩御に伴い、静子夫人と共に自刃。
その死は当時の昭和天皇も悲しみ、また国民のみならず世界からも多くの参列者が訪れた異例の葬儀となったという。
※H29/7/20転載許諾 北海道大学付属図書館より
乃木静子の生涯
薩摩藩士 湯地定之(医師)の4女として甲突川そばの現 甲突町に生誕。※写真左が静子
※H29/7/20転載許諾 北海道大学付属図書館より
※H29/7/20転載許諾 北海道大学付属図書館より
一説では、女ではなく男であれば。。という声もあったぐらいの才があったと言われている。
のちに「薩摩の娘ならば」と結婚相手を所望していた乃木希典と結婚。
四人の子宝に恵まれるも3人目4人目は幼少期に早世。長男次男は日露戦争で戦死という母として最大の悲運に見舞われる。※なお、夫、子供の従軍の折には、仮に戦死した場合、死臭を漂わせては無念であろうとの想いから、高級な香水を買い渡したとされる。
明治天皇崩御に伴い、これまでの大日本帝国陸軍に与えた人的被害の責を取り、殉死を選択した夫に付き添い自刃。
ひたすら夫と明治という時代に尽くした人生。その最後もまた夫に付き従うものだった。
建立された乃木静子像と周辺
松方正義の銅像から甲突川を挟んでちょうど向かい側。ここが乃木静子像が再び建立された場所であり、乃木静子の生誕の地でもあります。
再建立を祝いのぼりがはためいていますね(^^)/
中に行くとかつての土台。そしてその奥に。。
いらっしゃいました。。
そして、生前の優しさを宿しているのでしょうか?猫が周囲に(;^ω^)
碑文には原口泉先生のお言葉が
かつての台座には、資材を投げうって銅像を建立した村野夫妻の名がしっかり今に残ります。
まとめ
こうして振り返ると現在の感覚では容易に理解できない時代だったのがよくわかります。女性としての幸せはなんだったのかと。。
それゆえに今も彼女を慕い、彼女の生き方を想う人々が存在するのでしょう。
自己犠牲の精神を私は正義とは思いません。。
ただ、それを教えてくださった方、未来を残してくださった方はこういう方々なのかもしれません。
感謝とご冥福をお祈りしつつ、あとにしました。。
お墓
乃木将軍夫妻のお墓は東京の青山霊園にあります。
地図
それではまた(o・・o)/~