小さい頃に伊集院に住んでおり、家の近くのトンネルそばにあった石像にいつも疑問を持っていた。
「なんだろうこれ??」
当時、父にはトンネルを掘ろうとしたら出てきたもんだ。と、言われていたのだが、のちにそれが仁王像だったと知る。。
場所は日置市伊集院町。銀天街を通り抜けた先、妙園寺団地へと続くトンネルの前。ここには、千秋山雪窓院という雪窓院妙安大姉の菩提寺があった。
雪窓院妙安大姉とは?
雪窓院妙安大姉は、島津貴久公の妻であり、島津義久公・義弘公・歳久公の生母にあたる。
その出自は、島津家と長きにわたり対立していた渋谷一族の入来院氏の娘だ。
国人たちとの関係を良好にし、島津家の三州統一を盤石なものにしたい島津日新公が入来院氏へ嫡男貴久公との婚姻を強く要望し雪窓夫人は島津家へ輿入れする。
その後、貴久公との間に3人の男子を産むが天文13年に早世。あまりにも早い死は薩摩国の安定にも影を落としたが、雪窓夫人が生んだ子供たちは立派に成長し、九州だけでなく全国屈指の名将へと成長していく。
そして、三十回忌の折、島津義久公および義弘公、歳久公連名で雪窓院を菩提寺として建立することにいたるのである。
義久公の隠居と剃髪
この雪窓院。郷土誌において特に歴史の表舞台に出てくるのが、豊臣秀吉による九州征伐の折の話である。
戸次川の戦いにて、豊臣軍の先方隊を打ち破った島津家だが、その後は圧倒的な物量の前に押し込まれ、当主義久公は降伏を決意する。
その際、義久公は恭順の意を伝えるために雪窓院にて出家し剃髪。現薩摩川内市にある泰平寺にて秀吉に謁見することとなる。
ここで小さな疑問が生じる。義久公はなぜ出家先として、雪窓院を選んだのか?
当時の薩摩には、多くの寺院があり雪窓院よりも格式の高い寺は多かった。また、歴代島津家当主が眠る福昌寺を差し置いて雪窓院を選んでいる点も気になるところだが。。
兄弟で菩提寺を建てるほどである。島津家の今後を左右する秀吉との謁見を母に報告し、これから見守ってほしいと願ったのだろうか。。
本当のところは誰にもわからない。。ただ、当時の想いを考えてしまうのも史跡巡りの醍醐味なのである。
現在の雪窓院跡
現在、廃仏毀釈で破壊されつくした雪窓院跡には、義久公が剃髪した際に腰をかけたといわれる石が残る。
その他、無造作に置かれた墓石とおもわしき石が物悲しい。
駐車場などもなく、歩道に突然、現れるかつての寺跡であるが、義久公たち三兄弟の母への想いを考えると、今は朽ち果てた石仏を前に手を合わさずにはいられなくなるのである。
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それではまた(o・・o)/~