シリーズ鹿児島の銅像を巡る~vol.7~
幕末薩摩藩の家老。正式な名は小松清廉(きよかど)、通称として小松帯刀尚五郎と呼ばれる。
小松帯刀の歴史
1835年12月3日、喜入領主肝付兼善の3男として生まれた。
15歳頃から勉学に励んだが、17歳頃から病気がちだったという。
しかし、勤勉な小松帯刀は、徐々に大久保利通など若手下級藩士の集まりである精忠組とも交流するようになったという。
その後、27歳にして薩摩藩家老に。
1864年の池田屋事件をきっかけに坂本龍馬と急接近。
この時、集成館事業に影響を受けた龍馬はその後、亀山社中を結成する。
薩長同盟は、京都小松帯刀邸で調印され時代は討幕へと一気に動き出す。
しかし、1870年(明治3年)に36歳という若さで病死。
彼がいたから、西郷、大久保といった下級藩士も十分な活躍ができたと言われている。
惜しい。もし、長生きしていたら日本はどう変わっただろう?
この像を前に考えずにはいられない。。
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住所
鹿児島市山下町