川路利良像:大久保と共に”私”より”国”をとった初代警視総監

シリーズ鹿児島の銅像を巡る~vol.6~

大久保利通と共に鹿児島出身でありながら、鹿児島県民に圧倒的に嫌われている偉人といえば「川路利良」である。
鹿児島県警の前にある川路利良像

川路利良の歴史

川路利良は、現在の鹿児島市皆与志町に生まれた。

禁門の変にて、長州軍を相手に奮戦。その後も戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦い、会津戦争などで戦果をあげる。

明治政府では、西郷隆盛の推薦で欧州の警察制度を視察。それを基に日本の警察制度を確立。
その後、警視庁創設に伴い満40歳で初代大警視(後の警視総監)に就任。
鹿児島の観光スポット

ここまでは順風満帆だったが、その後、彼が忌み嫌われてしまうきっかけとなる事件が起きてしまう。

川路利良と征韓論

明治6年に起きた征韓論である。

これに敗れた西郷隆盛が下野すると、薩摩出身者の多くが従った。
だが、川路は「私情においてはまことに忍びないが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身する」といい明治政府に残ったという。西郷の推薦により日本に警察制度を作った川路だが、その恩を返すには西郷につき従うより、政府の中で警察制度を盤石のものにするという選択が重視されたのかもしれない。

川路利良と西南戦争

その後、明治政府では、同じく私的な情より国をとった大久保利通より厚い信頼を受け、各地に存在する不平士族の動向を探ったが、故郷鹿児島の動向を探りに送った警察官が私学校生徒に捕縛されると一気に事態は緊迫感を増す。

激しい拷問により、警察官が鹿児島に来た目的を「西郷暗殺」と吐いたため私学生たちは暴発。西南戦争へと突入する。

西南戦争では、警視庁で選抜した抜刀隊が活躍。皮肉にも、自らが提言し推薦した警察部隊と川路により西郷は追い込まれていった。

これが、西郷に対する川路なりの答えであり、国を想った答えだったのかもしれない。

だが、西郷の非業の死は薩摩の人々に鮮烈に刻まれ、官軍および、大久保、川路憎し!の感情は根強く残る形となった。

譲れぬ想いと理想のぶつかり合い。

ただ、彼らの背景には互いに民衆や国があった。

その志は共通する。

そういった意味で、川路利良についても再評価を仰ぎたいところである。

川路利良生誕の地

皆与志町の生家近くのバス停は川路にちなみ「大警視」と名付けられている。

生誕の地は記念碑とゲートボール場が(^_^)

お墓は、東京の青山霊園にあるらしいので、状況の折に参ってきます。

川路利良生誕の地の場所

Google Mapには、申請中なのでストリートビューで場所を御案内

川路利良墓所

東京港区の青山霊園にある川路利良のお墓

場所

川路利良のお墓に関しては下記の記事を参考に

 

川路利良の像

平成11年(1999年)に当時の鹿児島県警察本部長・小野次郎らの提唱で鹿児島県警察本部前に銅像設置。
IMG_1434

地図

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