有名な歴史小説家 司馬遼太郎の言葉。
「いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである」
そう言わしめた場所。それが加治屋町である。
鹿児島市 加治屋町界隈の史跡
加治屋町出身者
加治屋町出身の幕末の著名人は以下の通りだが、そうそうたる顔ぶれである。
西郷隆盛
(陸軍大将兼参議、維新の三傑の一人)
西郷隆盛誕生地
西郷隆盛宅跡
大久保利通
(大蔵卿、内務卿)
大久保利通の誕生地
大久保利通が育った場所
大山巌
(陸軍大臣)
大山巌誕生地
西郷従道
(海軍大臣、西郷隆盛の実弟)
西郷従道の誕生地
東郷平八郎
(元帥海軍大将)
東郷平八郎の誕生地
村田新八
(武士、政治家)
村田新八の誕生地
・岩下方平(武士、政治家、子爵)
・樺山資紀 (台湾総督)
・牧野伸顕(内大臣)
・田代安定(植物学者)
・吉井友実(元老院議官、日本鉄道社長)
・毛利正直(武士、華道家、大石兵六夢物語作者)
・東郷実猗(武士、東郷平八郎の兄)
・東郷実武(武士、戊辰戦争で戦死、東郷平八郎の弟)
・池上四郎(武士、軍人)
・有馬新七(武士、造士館訓導師、寺田屋事件で死亡)
・西郷吉二郎(武士、西郷隆盛の弟)
・西郷小兵衛(武士、西郷隆盛の末弟)
郷中教育とは
これだけの人物を輩出した背景には、郷中教育がある。※郷中教育を受けて活躍した著名人は加治屋町以外にもいる
郷中教育とは、方限(ほうぎり=地区のようなもの)ごとに6歳~15歳までの少年達が集まり、その少年たちに対し、15歳以上の先輩がつく薩摩独自の学習法だ。
早朝、少年たちは地区の武士に学問や書道などの教えを受けに行く。これは集団で行くのではなく、個人個人がひとりで教えを受けに行く。何を学ぶかは自由。自分で決め、自分で交渉し学びに行くのだ。
その後、それぞれ学んだ少年たちは集まって互いの学びを発表しあう。発表の場も自分たちで交渉し地区の家を借りる。
そして発表内容もただ伝えるだけではない。「こういった場合は?」「こういう考えもあるが?」議論を重ねていく。甘い議論は先輩が許さない。
このように与えられる学習ではなく、実践的な学習をしていくことで、問題解決能力や交渉力の高い武士たちが育て上げられたのだ。
すべては、島津家中興の祖 島津忠良公の教えの賜物である。
薩摩藩士の礎を築いた基本理念(以下現地案内板より)
【理論より実践を重んじる教育】
「日新公」と敬われた島津家中興の祖、島津忠良は人の道、生き方、人の上に立つ者の心得などをわかりやすく歌の形で広めることを目的として、天文14年(1545年)に「いろは歌」を作りました。
「いろは歌」は理論よりも実際の行動を重んじる薩摩藩士ならではの子弟教育の教典として重視され、その後も長く親しまれてきました。
郷中の二才(にせ)や稚児だけでなく、無学の者や子女もこれを諳んじて家庭教育の基礎としたといわれてます。
「古への道を開きても唱えてもわが行いにせずばかひなし」など総数47首の歌に詠みこまれた精神は、実践主義を旨として、義や誠を重んじた薩摩藩士の魂の根源でもあり、現代においてもなお色あせない重みを持っています。
園内に点在するいろは歌の広場には、47首の歌と意訳とがそれぞれ石柱に刻まれており、薩摩の偉人たちにも受け継がれてきた武士としての基本理念に触れることができます。
こうして育った加治屋町の薩摩武士たちが近代日本の発展に大きく貢献した。
現在の加治屋町
現在の加治屋町は、甲突川を中心に多くの市民の憩いの場になっているが、加治屋町出身者たちの史跡も多い。
今一度、日本の歴史をひっくり返した奇跡の町。加治屋町を巡ってみてはいかがだろうか?
地図