シリーズ鹿児島の銅像を巡る~vol.8~
明治維新は鹿児島が誇る偉人たち、また、長州をはじめとする他の志士たちとの協力により成し遂げられたものだ。
ただ、考えてほしい。
事を起こすには金銭が必要になるものではないだろうか。
薩摩藩において、宝暦治水などから続く莫大な借金を帳消しにした功労者は、家老「調所広郷」による功績が語られるが、そこに歴史の陰に隠れた商人の存在があったことは、多くの県民が知る事のない事実なのである。
その商人こそ指宿が生んだ豪商「濱崎太平次」である。※濱崎家は六代目から太平次の名を名乗り、この濱崎太平次は八代目にあたる。
濱崎太平次とは?
太平次は、指宿が生んだヤマキ(濱崎家の屋号)の第八代として生まれたが、ヤマキは先代の時に没落。
そんな中、太平次は18歳のとき父が亡くなると、太平次の名を継ぎ、笹貫長兵衛という人に商売の元手を借りに行く。
この笹貫長兵衛から借りた金を元手に琉球貿易から海運業を始めた太平次は、縁あって調所広郷と出会うこととなり、藩の御用商人として、薩摩藩財政立て直しのために密貿易の仕事をするようになるのだ。
その後は、造船に力を注ぎ、北は北海道から南は琉球まで、多くの貿易をし薩摩藩の財政建直しに身を賭して貢献。
地元指宿には、殿様湯の建立や神社の建替、街道整備などに対して度々献金も行っていた。
なお、薩摩藩の紡績事業は、太平次による功績が多大だったと言われている。
その後、文久3年(1863年)、太平次は大阪で客死(享年50歳)
そんな薩摩藩の財政を支えた濱崎太平次は、紀州の紀伊国屋文左衛門、加賀百万石の銭屋五兵衛と共に、江戸時代の『実業界の三傑』と呼ばれている。
知名度が低い濱崎太平次
なのになぜ、あまり知られる事のない存在なのだろうか?
これは考えるに、いわいる抜け荷という密貿易を指揮していたためといわれている。
たしかに当時の社会の中で、密貿易は幕府を欺く犯罪であったかもしれない。。
ただ、それが財政面から明治維新を支え、今の世に繋がっているというのもまた事実なのである。
明治維新から150周年を迎えるにあたり、こういった功績が世の中に広く伝わる事を強く望む次第である。
八代目濱崎太平次のお墓
指宿駅からほど近いセントラルパークそばにある八代目濱崎太平次のお墓です。
高齢者障害者のための環境情報
銅像前までは車で行けます。駐車場を降りると目の前に銅像がそびえます。銅像下までは数段の階段があり手すりなどはございません。
地図
それではまた(o・・o)/~