平成30年は、明治維新から150周年。
明治維新功労者の代表格である西郷隆盛と大久保利通。
功績と相反し、二人ともその最後は共に壮絶だった。
今回は、地元鹿児島だからこそ、振り返りたい南洲翁西郷隆盛の最後と終焉の地を巡ったのでご紹介します。
ここを訪れる前に知っておきたいのはやはり西南戦争の始まりからの経緯です。
西南戦争終盤
私学校生徒たちの暴発後、薩軍は西郷隆盛を総大将とし、熊本、大分、宮崎など各地において政府軍と戦うが、近代兵器と物量に勝る政府軍に薩軍はどんどん追い詰められていく。
苦しい戦局の中、西郷は、宮崎日向北方において軍を解散。
桐野利秋をはじめとする薩軍幹部らと共に、鹿児島に戻り最後の決戦に臨む。
陣地を構えたのは、旧鶴丸城背後にそびえる城山。
対する政府軍は幾重にも城山を包囲し、西郷たち薩軍に集中砲火を浴びせる。
そして、明治10(1877)年9月24日
西郷隆盛と薩軍幹部ら生き残りの将兵は、それまで過ごした洞窟を出て城山を下山。
この時、覚悟を決めての進軍だったと考えられる。
西郷に付き従った将兵は、一人また一人と政府軍の銃弾に倒れていく。
そして、ついに西郷も被弾。。
西郷隆盛の最後
弾が肩と右太ももに当った西郷はその場でがっくりと膝を落とす。
「晋どん・・もうここらでよか」
別府晋介にそう伝えた西郷は、皇居の方向に一礼し切腹。
そして、別府晋介は涙を流しながら「ごめんやったもんせ~」と大きく叫んで、西郷の首を落としたという。
西郷の死と明治天皇
英雄 西郷隆盛の死に多くの鹿児島県民は悲しみ、その報を受けた明治天皇は「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたと言われている。
さらに西南戦争の翌年、明治天皇は追悼歌会を開く。
この時に「西郷の罪過を誹らないで詠ぜよ、唯今回の暴挙のみを論ずるときは、維新の大功を蔽ふことになるから注意せよ」といい、皇后や女官などに西郷隆盛という題で和歌を詠じさせた。これは、異例中の異例と言われており、西郷と明治天皇の関係性が感じられる出来事だ。
その後、大日本帝国憲法発布の大典の際、西郷隆盛の賊名を除き、正三位を追贈される。
ここからは現在の様子
西郷洞窟
※城山観光ホテルへ登る道路沿いにあり、駐車スペースも数台分ある。
ここからその日、西郷たちは進軍した。現在見る限りはとてもせまい。
西郷終焉の地
大きな碑があるもののどこかさびしげな場所。駐車場などもない。
ただ、ここで西郷さんが最期をとげられたのか。。と思うと、なにやらこみ上げてくるものがある。
日本の行く末を案じ、未来への転換を切り開きながらも、その過程で生まれた旧体制の不満を一身に背負って散って行った南洲翁。
その行く末に生まれた自分たちは何ができるのだろうか?
時代は違えど、繋いでくださった未来をさらに次の世代に繋げていきたいものだと感じた。
高齢者・障害者のための環境情報
西郷洞窟:駐車スペースが道路沿いにあるが、坂道のため車いすの場合は注意。洞窟前までは、階段を降りなければならず複数人で車いすを担いで下ろす必要がある。
西郷隆盛終焉の地:駐車場なし。終焉の地前に車を止められる方もいるが、駐車禁止のため注意。手すり付きの階段12段ほどを登る。スロープなし。