島津日新公の長男は貴久公。フランシスコ=ザビエルと謁見した際の島津家当主であり、父日新公と共に島津本家の混乱を治め、のちの三州(薩摩、大隅、日向)統一の基礎を作った人物だ。
ただ、その陰には最前線で鬼神の如き働きをした弟の存在があったのを御存知だろうか?
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島津忠将公の歴史
忠将公は、天文7年(1538)の加世田城合戦で武功をあげたのを皮切りに薩摩から大隅へと各地を転戦。天文23年(1554)岩剣城の戦いでは鉄砲をいち早く使用しこの戦を制す。
この忠将公の活躍により島津家の勢力は拡大。それに伴い、島津家と婚姻関係にあった大隅の雄 肝付家との関係は徐々に悪化していく。
そして、この確執が決定的となり両軍が激しくぶつかったのが、永禄4年(1561)廻城の戦いである。※現霧島市福山町
廻城の戦い
廻城城主であった廻久元は、島津方の人物であったが目が不自由であり、嫡子も幼少であったことから家中が混乱。その隙を肝付兼続につかれ城を奪われてしまう。
これに対し、出陣したのは島津義久公と忠将公。
当時、忠将公は日州街道沿いの馬立に陣したといわれている。
※廻城の戦いの配置図
戦乱の中、最前線の竹原山に肝付方が襲来。竹原山の兵は少なく壊滅は必至だった。
決死の突撃
この味方の危機に対し、忠将公は竹原山の救援を決意。家老の町田忠林の懸命の制止を振り払い単騎で突撃を敢行。町田忠林ら家臣も後を追い竹原山へ決死の突撃を行う。
島津忠将公の最期
だが、肝付方の伏兵によりその道は閉ざされる。この時、忠将公は一度は囲みを突破するも、家臣たち共々、ついに討ち死にを遂げたという。
共に出陣した義久公は多いに嘆き、その死に報いるため島津軍は奮起。ついには廻城を奪還し、大隅制圧への歩みを進めるのである。
引き継がれた次男の剛勇ぶり
次男を最前線に配置するのは日新公の方針だったというが、この忠将公の奮戦は甥っ子であり、貴久公の次男「島津義弘公」にも大きく影響を与えたと思う。
本国で政務を取り仕切る兄に変わり、最前線で活躍する次男。その理想像は忠将公であったかもしれない。
廻城の戦いで、忠将公が囲みを突破できなかった無念は、のちに関ヶ原の戦いにて「島津の退き口」(敵中突破)で義弘公により晴らされたのでは。。
全く無関係かもしれないが、そんなことも考えたくもなってしまう。
現在の島津忠将公供養塔(七寶塔)
さて、ここからは島津忠将公供養塔(七寶塔)について案内する。
この公園と道路を挟み斜め向かい側に下記のような案内看板がある。
これは、日州街道の案内であり、この先が日州街道となる。
この道は車一台分しか入れず、落ち葉や木の枝も多いため、中茶屋公園に車を停めて歩いて行くことをおすすめする。
なお、この案内は歴史を辿る方々の間で不評である。理由としては、奥まった日州街道に案内があって地元の人以外、誰も気づかないこと。そして、ここは、忠将公のお墓ではないことがその要因だ。※墓は霧島市国分清水の楞厳寺にあるとされるが、それについては後述。
案内文をすぎて中に入っていくと、石段の階段とその手前に碑がみえる。
この碑の建立は明治31年(1898年)8月。
有志の解読によると、廻城の戦いにおける忠将公の奮戦と最後。そして、ここに供養塔(七寶塔)が建てられた経緯が刻まれているらしい。
忠将公の子である以久公が天正3年(1575年)島津忠将公七寶塔をこの地に建てたが、自然災害により倒壊。このため、七世 久治公が延寶5年(1679年)に再建したものが現在に至っているという。
現在は、木々が多い茂っているが錦江湾を見渡せる場所に建っている。
古き良き日本の田舎の姿ともいえる感じだ。
かつての激戦は遠い昔。
今は訪れる者も、この戦いを知る者も、忠将公の存在さえ知る者は少なくなったのではないだろうか?
大切な文化財でもある。福山に行かれる際には訪ねて頂きたい。
忠将公とその家臣たちの冥福を心より祈り、この場を後にした。
菩提寺跡へ(楞厳寺跡)
島津忠将公の墓所。楞厳寺は廃仏毀釈により廃寺になっている。※寺にあった仁王像の一部は国分市立郷土館に保管されている。
ただ、さらに問題なのはそのあとで、廃寺後に残された忠将公らの墓は、太平洋戦争の爆撃により破壊されてしまっている。
その痕跡はなんとも物悲しい。
歴史上の扱いも、最後も、そして墓までも無念の人となってしまっている。。
こうしてこの記事を通じ、多くの方に知ってもらう事が何よりの供養になるのかもしれない。
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