薩摩藩の幕末志士 有馬新七について今回はご案内したいと思う。

有馬新七の歴史

有馬新七は伊集院の古城村(当時)にて、薩摩藩士・坂木正直の息子として生まれた。

その後、新七が3歳の時、父が有馬家に養子に入ったのに伴い、鹿児島城下へ移住。

剣では直心影流を学び、19歳で江戸に出てからは山口菅山の元に入門。さらには山崎闇斎からも学んでいた事から、将来有望な文武両道の武士であったことがうかがえる。

しかし、その思想は徐々に攘夷へと傾いていき、各地の尊王攘夷派との関係性も深まっていく。

有馬新七と桜田門外の変

驚くべきことだが、安政6年(1859年)に起きた井伊直弼による安政の大獄の際には、孝明天皇から水戸藩へ下された「戌午の密勅」の写しを土佐藩、福井藩、宇和島藩の3藩に伝達し、井伊直弼暗殺計画に関わっていたらしい。
が、藩の許しが得られず計画を離脱。しばらくのち、水戸藩により暗殺は遂行されることとなる。

※戌午の密勅とは:攘夷を望んだ孝明天皇により、幕府を通さず、直接水戸藩に下した攘夷命令

しかし、その後も攘夷の思想は揺るがず、過激な行動はさらに多くなっていく。

寺田屋事件

そんな中、文久2年(1862年)に薩摩藩の国父である島津久光公が、公武合体を推進するために、兵を率いて上洛する事になる。

その事を聞きつけた新七は久光一行よりも早く京都に入り、長州藩士 久坂玄瑞らと図って、京都所司代の酒井忠義を襲撃する計画を実行しようとする。

これは、久光の慎重な行動をなし崩し、久光と共にいる兵を自分たちが主導となり扇動する事で、そのまま挙兵しようとしたと考えられている。なお、その時の覚悟の深さは、上洛前に妻と離縁していたことからもうかがえる。

だがそこは薩摩藩国父。

久光はこの計画を事前にに察知し、奈良原繁ら9人の藩士を、新七のもとに派遣し、説得させていた。

そして、文久2年(1862年)4月23日伏見にある寺田屋にて、新七らを説得中に事件は起こる。

有馬新七は、その過激な攘夷運動で血気盛んなイメージがあるが、奈良原らの訪問を受けた時は、静かな話し合いだったらしい。

ところが徐々に話は相容れる状況でないことが露呈する。

主君の代理として来た奈良原は、説得に応じない新七に対し、ついに
「ならばこの場で上意討ちするしかないが良いのか?」と問います。

それに対し「仕方なかろう」と答える新七。

あくまで冷静な二人に対し、側にいた彼らの同志たちの気持ちは収まらない。

そしてついに、奈良原の横にいた道島五郎兵衛が「上意!」と叫び、新七の脇にいた田中謙助に斬りかかる。

これにより、薩摩藩士同士による壮絶な切り合いが始まるのである。

この時、不運な事に数回刀を合わせたところで、新七の刀は折れてしまう。

これにより素手で道島を抱え込んだ新七は、道島を壁へと押し付け、近くの同志に「おいごと刺せ!!おいごと刺せ!!」と叫ぶ。

その同志により、背中から刺された新七は、道島を道連れに絶命。

この時、有馬側は六名が死亡し、生き残った二名ものちに切腹となった。

切り合いに参加せず二階に待機していた他の攘夷派は投降。謹慎を命じられる事になる。

寺田屋事件の投降者たち

投降者の中には、後に大活躍する大山巌、西郷従道、篠原国幹がおり、新七らが説得に応じていたら、また違う近代史が生まれていたのではと想像せずにはいられない。

ただ、切り合いに参加し、のちに切腹となった攘夷派の橋口壮介は、死の間際、奈良原に
「俺らが死んでも君らがおる。この先の事は、君らに頼む」
と言い残したという。

思想の違いで相容れなかった両者だが、互いに日本の未来を案じた結果であり、その志は手段は違えど同じだった。

ただ純粋に国の行く末を思っての行動。

その志の尊さに今の時代だからこそ学べる事が多い気がする。。



有馬新七ゆかりの地

さて、話は変わり有馬新七ゆかりの地の話である。

有馬新七生誕の地

彼が生まれた伊集院には生誕の地の碑があるが、河川工事により移動されてしまっている為、実際の場所はわからない。ただ、彼がこの地域に生まれたのは確かである。
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有馬新七の墓

また、伊集院には有馬新七の墓もある。京都大黒寺に寺田屋事件の有志たちの墓があるが、それとは別に先祖伝来の墓としてここに眠っている。
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有馬新七の墓

石谷の石坂

その他。旧松元町石谷地区を統治した際に悪事を働いたものに罰として石坂を作らせた記録も残る。これは、今も一部現存している。
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有馬新七宅跡

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まとめ

おそらくではあるが、彼がもし生き延びていたら現代日本は大きく変わっていたと思う。

例えるなら、織田信長が本能寺の変で倒れなかったら?というレベルで大きな影響を及ぼしていたかもしれない。

たとえ上意打ちになろうと初志貫徹。

それだけ国を思える人間はそうはいない。

志半ばで倒れたが故、実績不十分というところだが、郷土の英雄として再評価したい人物である。

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