シリーズ鹿児島の銅像を巡る~vol.4~
東郷平八郎像と多賀山公園
日露戦争。
近年では、歴史の教科書でしか聞かない昔の戦争の名前という認識の若者も多い。
その実際は、当時、アジアを席巻した西欧諸国による植民地化の流れを、明治維新以降、急速に近代化した日本が打ち破った大金星なのだ。
そして勝利を決定づけた戦いこそ、海軍大将 東郷平八郎元帥が率いた日本海軍とロシアバルチック艦隊による「日本海海戦」である。
日本海海戦
当時のバルチック艦隊は自他共に認める世界最強の艦隊。
それを、自軍の艦を一隻も失うことなく、ロシア艦隊19隻を沈め、5隻を捕獲し、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督を捕虜とした衝撃は世界を駆け巡った。
さらには、相手の将兵など、捕虜への対応は誠に紳士的であり、東郷自ら、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督を見舞ったという。
これをきっかけにアジア諸国では、トーゴーの名を借りた通り名などが増えたというし、未だ世界の海軍から尊敬を集める海軍大将として伝わっている。
ニミッツ提督
特に有名な事例がニミッツ提督の話だ。
第二次世界大戦において、太平洋艦隊司令長官を務めたアメリカ海軍のニミッツ提督。
彼は、士官候補生だった時代、日本で東郷と接触したという。
その時の話を彼は後にこう語っている。
「私は海軍士官候補生の時、私の前を通った偉大な提督東郷の姿を見て全身が震えるほど興奮をおぼえました。
そして、いつの日かあのような偉大な提督になりたいと思ったのです。東郷は私の師です。
あのマリアナ海戦の時、私は対馬で待ちうけていた東郷のことを思いながら、小沢治三郎中将の艦隊を待ちうけていました。そして私は勝ったのです。東郷が編み出した戦法で日本の艦隊を破ったのです」
彼の東郷への想いがよく伝わるのだが、さらに後日談がある。
第二次世界戦後に、ニミッツは日露戦争で東郷が乗艦した戦艦三笠が、荒れ放題になっていることを聞き心を痛めた。
この理由としては、第二次世界戦後、東郷までが軍国日本の悪しき象徴とされた事に起因している。
結果、東郷が乗艦した戦艦三笠も無惨な扱いを受ける形となってしまったのだ。
なんともひどい話だが、船内、特に司令長官室は「キャバレー・トーゴー」なるお店に使われていたという。
これにニミッツは嘆き悲しみ、米国海軍などに働きかけ、復元費用捻出に奔走した。
その後、彼の努力が実を結び、日本でも三笠に対する扱いの見直しがすすむ。
そして、昭和35年にようやく復元に至ったという。
この時のニミッツの言葉に心が震える。
「貴国の最も偉大なる海軍軍人東郷元帥の旗艦、有名な三笠を復元するために協力された愛国的日本人のすべての方へ、最善の好意をもってこれを贈ります。
東郷元帥の大崇拝者たる弟子
米国海軍元帥 C・W・ニミッツ」
なんとも言葉にならない。。
ニミッツ・センターと東郷平八郎
そして、時はすぎ、ニミッツの死後である昭和51年。彼の功績を記念して、アメリカは「ニミッツ・センター」の設立を計画する。
この際、センターのハーバード理事長は
「ニミッツ元帥は東郷元帥を生涯心の師として崇拝してきました。東郷なくしてニミッツを語ることはできないと信じますので、本センターは是非、東郷元帥の顕彰も併せ行いたいと思います。また東郷のような偉大な人物を育てた日本の文化資料も展示し、日本の姿も知らせたいと思います」
と、述べ、結果、ニミッツセンターは日米双方の英雄を記念する施設として今に残るのである。
戦争とは悲しいものである。
ただ、大きな歴史のうねりに巻き込まれ、そこに関わった人々による生きざまは否定できるものではない。
そう考えると、現代における東郷元帥の扱いの低さは残念でならない。
東郷平八郎像
東郷平八郎のお墓
東郷像のある多賀山公園には、東郷元帥の遺髪が埋葬されているお墓と像がある。
今でも外国の海軍が鹿児島に寄港する際は、艦長や将兵が墓参に訪れる。
そんな場所があるのが、多賀山公園なのだ。
多賀山公園
桜を楽しめる場所でもあるのだが、東郷元帥にお会いできる場所でもある。
是非とも訪ねて頂きたい。
東郷元帥の肉声
高齢者・障害者向け環境情報
駐車場そばに多機能トイレあり。東郷像やお墓までは、階段のルートと坂道のルートがあり、坂道の方はやや距離が長い。
東郷平八郎像・東郷平八郎お墓・多賀山公園
住所:鹿児島県鹿児島市清水町