地元では開聞神社とも呼ばれている神社へ
主祭神は天照大神。配祀神は五男三女神。
概要
創建は定かではないが、『日本三代実録』には貞観2年(860年)に、薩摩国従五位上開聞神が従四位下を加えられたと記載され、延長5年(927年)の 『延喜式神名帳』には「薩摩国穎娃郡 枚聞神社」としての記載もあるため、少なくとも1200年近い歴史がある神社といえる。
薩摩半島が島津氏の直領となってからは、航海、交通、漁業の守護神として崇敬された。
現在の社殿は慶長15年(1610年)に島津義弘公が寄進したものを天明7年(1787年)に島津重豪公が改築した物である。
宝物館
なお、敷地内には宝物館があり(入館料金¥100)国の重要文化財である松梅蒔絵櫛箱(玉手箱ともいう)や神楽面、掛け軸、古文書など展示されている。
その他、枚聞神社には以下の神話、伝説がある。
竜宮伝説
開聞岳は上古鴨着島と称し竜宮界であり、海神豊玉彦命の宮地であった。彦火々出見命は御兄火照命の釣を紛失し、お困りになったのを塩土翁の教によって、海 神の宮に赴かれ、その門前の井戸の辺で豊玉彦命の御女豊玉姫命に御逢いになり遂に御結婚を遊ばされた。枚聞神社の北方約三百米位の玉の井の遺跡はその井戸 であり日本最古の井戸と伝えられている。更に其の西方の岡には命等の御結婚をされた聾入谷の遺跡がある。
天智天皇御巡幸伝説
開聞岳の麓の岩屋に一仙人が行をしていたら或日一頭の鹿が現はれ法水を舐めたところ忽ち懐妊して一児を分娩した。之を瑞照姫、又は大宮姫と申す。天性の麗質世上に聞こえ、二歳にして上京藤原鎌足に育てられ、十三歳にして宮中
に召され天智天皇の妃として御寵愛を受けること深かったが、他の女后等に嫉まれ遂に宮中を連れ出でて伊勢の阿野津より船出し山川の牟瀬浜に上陸郷里へ帰っ て来られた。其の時大甕二個を持ち帰られたが、一個は途中で破損した。他の一個は現在尚神社の宝物館に保管されている。其の後天皇は姫を慕って薩摩に御下 向され、姫の許で余生を送られ御年七十九歳で崩御遊ばされたと伝記には記されている。
余談だが、枚聞(ひらきき)と開聞(かいもん)。この読み方は面白い
開聞を(ひらきき)と読んだのだろうか?
土地の人は開聞神社とも呼ぶそうだが、なぜ枚聞となったのか?
理由は分からないが、とにもかくにも新田神社同様、薩摩一の宮の格式は伊達ではなく良い雰囲気の神社である。
高齢者・障害者向け環境情報
境内へのアプローチに階段3段/踏込み68cm/蹴上げ9cm
東門に8cmの段差はあるが、車いす用出入り口がある。スロープ勾配17%
西門入口10cmの段差あり。
宝物殿へのアプローチに階段5段/踏込み30cm/蹴上げ16cm。
トイレ
扉の形状・開放幅 引き戸(83cm)
取っ手の高さ 70cm
手すりの高さ 60cm
個室内の寸法 190cm×180cm
便座の高さ 74cm
開閉時の重さ1.7㎏