調所広郷(ずしょひろさと)像:薩摩藩きっての能吏 汚れ役に徹した藩政改革

明治維新。その偉業や成し遂げた人々の活躍が注目される出来事ですが、物事を成すには必ず伏線があります。歴史をさかのぼれば、全国各地、多くの伏線がつながり成し遂げられたことですが、今回は薩摩の伏線のひとつ調所広郷の活躍について取り上げてみたいと思います。

調所広郷

調所広郷の歴史

調所広郷は、安永5(1776)年3月に川崎主右衛門基明の次男として生まれ、天明8(1788)年 調所清悦の養子となります。その十年後の寛政10年(1798年)江戸へ。島津重豪公にその才能を見出されて登用され、使番や町奉行を歴任。小林、鹿屋、佐多の地頭を兼務し、順調に実績をあげていきました。

ところが、そんな調所に無理難題がふりかかるのです。

大赤字の薩摩藩

当時の薩摩藩は、収入13万両に対して支出は約20万両。そのうち5割(10万両)が参勤費用を含む江戸藩邸の維持経費。4割(8万両)は借金の利払いというまさしく火の車。この状況で調所は、文政11年(1828年)財政改革主任を命じられます。この時、藩債(半の借金)が500万両だったというから大変なことです。

砂糖の専売と密貿易

この無理難題に対し、調所は離島の特産品である黒砂糖を活用。砂糖の専売制を行い、耕作から保管、運送、販売に至るまで藩による一元管理とし経費削減と増収を図りました。さらに、幕府の目を逃れ、琉球や清との貿易を拡大(密貿易)し利益を拡充します。

借金の踏み倒し

一方で、収入を増やしても出るものを減らさないと貯まるものも貯まらない。そこで調所は藩の借金返済について「250年の無利子による年賦返済」を商人たちに一方的に通達。一応、返済の約束はしているが、現実的ではなくほぼ借金を踏み倒したといっても過言ではないです。当然、破綻する商人たちも出ましたが幕府は事態を黙殺。この裏には調所が事前に幕府に献金を行っていたからではないかと言われています。ただ、商人への懐柔も忘れてはいない(笑)先に挙げた砂糖販売の利権を与えて商人たちに与えることで利益を供与していたりもしました。

財政手腕と財政回復

そして倹約するだけではなく甲突川五石橋など必要な投資と思われるものは商品開発なども含め積極的に投資。あらゆる財政改革を次々と断行した結果、天保11年(1840年)薩摩藩は250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復したといわれています。

※移設され今も残る石橋は下記記事を参考に

https://kagoshimayokamon.com/2015/10/16/ishibashikinenkouen/

お由羅騒動と最期

そんな折、幕末薩摩藩のおいて痛手となるお家騒動が起きる。世に言う「お由羅騒動」です。

※お由羅騒動については下記記事を参考に

 

この島津斉興公の後継を巡る斉彬派と久光派との争いで調所は久光派を支持します。ところが斉彬公を押す幕府老中 阿部正弘に密貿易の件を糾弾され進退きわまります。その後、江戸の薩摩藩藩邸で自殺。享年73歳。密貿易の責任が斉興公に及ばないようすべての責を負った自殺と言われているのですが、この後、調所家は家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられたのです。薩摩藩のために尽くした能吏の最後としてはあまりに悲しい最期だったといえます。

再評価

密貿易や借金の踏み倒し、住民への課税強化などの政策が多かった点や、西郷さん、大久保さん視点の物語では、久光公派の調所広郷は悪く描かれる事が多いことから、あまり世間によい印象を持たれている事が少ないです。ですが間違いなく薩摩藩を救い、明治維新を陰で支えた功労者。のちに斉彬公によって行われる集成館事業なども含め、彼が残した藩の蓄えがなければすべての物事は破綻していたといえます。

個人的には、大久保利通や石田光成などに似ていて、政治的手腕、行政的手腕に優れた政治家であり、忠義や志を一本気に貫く人という印象。それ故、時に冷酷に映る政策も”藩のため”に必要なことと断行できたのだと思います。そもそも、普通の手段では出来ないことをやるには、それだけ常軌を逸したことをしないと解決できなかったのです。

藩の財政立て直しと明治維新の布石となる資産の構築。これだけのことをしながら、その最後は密貿易の罪を一身に背負い亡くなった調所広郷。今一度、彼の功績を称え、墓参したいものです。

調所広郷像

平成10(1998)年3月、天保山公園に建立。道路沿いにあるのでわかりやすいです。

鹿児島観光

地図

※現在、Google MAPに追加申請中

調所広郷とゆかりの地

調所広郷と縁のある場所や人についてご案内します。

美山との関係

日置市東市来町美山には、調所広郷の招魂墓が残っています。これは調所が同地の薩摩焼増産と陶工の生活改善に尽くしたことから、同地域では調所の死後もその恩義を感じて調所の招魂墓を作り、今も大切にされているそうです。

美山に残る調所広郷招魂墓

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豪商 濱崎太平次

調所広郷を支えた指宿の豪商。

霧島市国分資料館

調所家に伝わる刀が展示されている。

調所広郷邸跡

平田靱負屋敷跡の道路向かい側にある調所広郷邸跡。残念ながら今はマンションが建っており、その一角に案内と碑があります。

地図

調所広郷のお墓

鹿児島市にある福昌寺跡に調所広郷のお墓はあります。

調所広丈のお墓

調所広郷の三男。高知県知事、元老院議官、貴族院議員を歴任。お墓は東京の青山霊園に

まとめ

いかがでしたでしょうか?

前述していますが、幕末の物語ではどうしても悪役に仕立てられることも多いですが、彼の功績は否定されるものではなく、称賛に価するものだと個人的には思っています。

彼がいなかったら、薩摩藩は、明治維新はどうなっていたのでしょう?そんなことを考えずにはいられません。

 

それではまた(o・・o)/~

 

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